聖書を新しい言葉で

聖書を新しい言葉で (1)

 文語訳、口語訳、共同訳、そして新共同訳といえば、日本における聖書翻訳の軌跡です。これに2018年12月『聖書協会共同訳』が続きました。『新共同訳』の発行から実に31年ぶりの出来事です。それから5年以上、いわゆる感染期の対応に追われて(と言い訳にして)、教会としてこの新しい翻訳に注目してきませんでした。そこで今、まずは知ることからとの思いで、この紙面により新しい『聖書協会共同訳』の特徴を捉えます。
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 宗教改革期、グーテンベルクの活版印刷術の確立と相まって、教会はラテン語でのみ読んでいた聖書を母国語で読むようになりました。1522年、ルターによるドイツ語訳聖書(新約)の出版は画期的なことでした。日本に置き換えれば、平安時代の言葉で読まれた聖書を現代語で読むようになった、という感覚でしょう。
 それ以来、聖書を読むことは聖書の翻訳作業と表裏をなします。冒頭の翻訳の軌跡しかり、世界各国で同様の不断の営みが重ねられています。
 それにしても、すでに十分理解し得る現代語訳を獲得している、という声も聞こえてきます。しかしながら、大きく次の2つの理由で聖書は翻訳され続ける必要があります。
 まず聖書には翻訳される元の底本(原本)の改訂があります。神の言葉としての聖書は、人間の手により一文字一文字書き写されています。その写本としての聖書研究が進む中ではより古い、つまりより原典に近いと推測されるものが発見されます。『聖書協会共同訳』の底本となるUBS(United Bible Societies、聖書協会世界連盟)もいまなお固定されたものではありません。
 また聖書学、翻訳学の進展も翻訳更新の動機となります。翻訳には必ず解釈が伴いますが、その解釈に聖書学的な修正が必要となれば自ずと翻訳が変わります。さらに時代や社会の変化により言葉の捉え方が変わることもあり、結果、その意味が理解されない事態も生じます。ほかにも目で追うための翻訳か、声に出して口にするための翻訳か…、と翻訳の奥深さを思います。

村上恵理也