文語で味わうみことば

2021年3月

文語で味わうみことば 59


 困難な日々に終わりを見出せぬまま迎える春、すべての人に有形、無形の負荷が加わる。それが遠因となり、今は人の攻撃性が顕在化する時期だと分析される。
 そう思ってみれば、インターネットをはじめあらゆる媒体から溢れ、不可抗力的に見聞きする言葉は、以前よりささくれ立っているように感じられる。言い返すことができない相手を見つけては、鋭利な言葉が投げつけられる。
 それもこれもすべてはコロナのせい、では済まない。我々は今こそ、この舌が何のために与えられているかを学び直さなければならない。否、今は舌だけではない。言葉を発するこの指も問われている。
 ここに五年前より綴る「文語で味わうみことば」を結ぶ。折々の言葉が、主の「教をうけたものの舌」から出た、疲れた人を励ます言葉足りえたのか、心細く振り返る。
言葉の獲得のために、主の憐れみを祈り続ける。


松戸教会 村上恵理也


文語で味わうみことば 58


「右の頬を打たれる」という場合、打つ側の人は手の甲を使うことになる。それは手のひらを使うまでもない、汚すまでもない、という意思表示であり、相手を見下す(ことにより自分の優位性を確保する)行為である。
 主イエスは、あなたの右の頬を打つ人に、左の頬をも向けよ、といわれる。これは自分をさげすむ人にいよいよ屈服し、されるがまま耐えなさい、という絶対無抵抗の教えのようにも聞こえる。
 しかし実際どうであろう。左の頬を向けたとき、向けられた人は、はたと立ち止まるに違いない。そして思い至るであろう。左の頬を打つには手のひらを使うことになると。それは自分が相手と対等であることを表明することになると。主イエスの言葉は、打つ人に熟考を求める。
 疲れた人が憂さ晴らしにだれかを打つ機会をうかがっている。その人に、主イエスは熟考を促す。

松戸教会 村上恵理也


2021年1月

文語で味わうみことば 57


道を行き交う人々が疑いの目を向け合う。窓越しに飲食店をのぞき込み、冷ややかな目線を向ける。だれの対策がなっていない。彼の範が見られない。…何とも殺伐とした人の営みが眼前に広がる。否、この私こそ、その光景を織りなすひとりであるゆえ、これを俯瞰して見ることなどできない。
しかし、主はこの冷え切った器をも憐れんでくださる。自分で自分の冷酷を受け入れることができないときにも、神は私を愛し抜かれる。その獨子を賜ふほどに世を愛される神の情熱は、この私を通して世に温もりをもたらす。
自己愛(エゴイズム)は他者排除に傾くが、自己受容は他者受容を促し、隣人愛をもたらす。
こんな私でも神に受け入れられたことに驚き気づくとき、こんな私でも他者を慰め、励ますために用いられたいとの祈りに導かれる。

松戸教会 村上恵理也


2020年12月

文語で味わうみことば 56

羊飼いの頭上でみ使いは平和を告げる。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」羊を軽々担ぎ上げるその腕力とは裏腹に、羊飼いは社会において小さく、虐げられた存在である。その彼らを、み使いは「御心に適う人」と呼び、彼らに「平和」を告げた。それは弱い者が権力、経済力、軍事力を梃子(てこ)にのし上るところに一瞬現れる、力の均衡としての平和ではない。
預言者イザヤは、北にアッシリア、南にバビロニアという大国の脅威にさらされるイスラエルの人々に、狼と小羊の共存を語った。それは自然界の調和のみならず、狼や羊に象徴される強者と弱者、地上の国や人間の不均衡な関係のいやし、神のみが与え給う平和である。
弱い者が弱いままで、不安や脅威を抱くことなく生きる世界。それが「御心に適う人」に告げられる平和である。今なお神は、これをもたらそうと頭上にみ使いを遣わす。
松戸教会 村上恵理也


2020年11月

文語で味わうみことば 55

海面下四百メートルに位置する死海は、世界で最も低地にある湖となる。満々と水をたたえるガリラヤ湖よりヨルダン川を伝って流れ着く水は、死海を最後に行き場を失う。蒸発するほか、入るばかりで出ることのない湖の水は、塩度が極まり、あらゆる生物を寄せつけない、まさに「死」海をなす。
三浦綾子氏は小説『続氷点』の中、ジェラール・シャンドリなる人の言葉を紹介して言う。

一生を終えてのちに残るのは、
われわれが集めたものではなくて、
われわれが与えたものである。

主イエスの言葉に生きた先達が、わたくしどもに与え 残したものを一つひとつ数え上げたい。そして、わたくしどももまた「いのち」に生きる者とされたい。
松戸教会 村上恵理也


2020年10月

文語で味わうみことば 54

一枚の写真がある。4キロで生まれ丸々と育った私が、小柄で白髪の祖母におぶわれている。私は満面の笑み、祖母は重さに耐えながらの笑顔で収まっている。
ときを経て祖母の晩年に至っても、私は祖母を背負うというほどの恩返しをすることはなかった。それでも洗濯物を取り込みながら歌う祖母の姿を間近に、祖母には年老いてなお、主に背負われる平安があることを学んだ。

いつくしみ深き  友なるイエスは、
罪とが憂いを   とり去りたもう。
こころの嘆きを  包まず述べて、
などかは下さぬ、 負える重荷を。(讃美歌三一二)

人は幼き日に背負われる安心を知り、子の親として背負う喜びを学び、そして白髪になり、もう一度、背負われる平安を味わうのだと思う。

松戸教会 村上恵理也


2020年9月

文語で味わうみことば 53

神からの加護を、親鳥の羽のもとに宿る雛の安らぎに重ねる詩人の詩。
親鳥はその翼の下、吹き付ける風から、襲い来る外敵から、小さく弱い雛を守る。山火事にその身を焦がしても、雛を守り抜くという。
十字架の上、両の腕を開くキリストのみ姿に、罪人を守り抜く神の決意が示される。神は罪人が受けるべきご自身の怒りと罰を、ただ独り、十字架の御子に負わされた。
ここに神の赦しと愛が現わされる。

十字架のもとに われは逃れ
重荷をおろして しばし憩う
あらしふく時の いわおのかげ
荒れ野の中なる わが隠れ家

(『讃美歌21』300)

 翼の下さえずる雛のように、神を慕いうたいたい。

松戸教会 村上恵理也


2020年8月

文語で味わうみことば 52

平和と訳されるシャロームは、精神的、物質的、人格的、対人的…あらゆる局面において、あるべきものが満ちていること、完全な状態を表す概念という。これが旧約では、将来に関する預言として語られることが多く、目の前の 社会を現在形で表現するときには用いられない。それは、この概念が王権に象徴される、力と数による秩序と混同されることを避けるためである。
多くの場合、王権の秩序がもたらす「平和」を享受するのは都市型の先鋭集団である。その背後には、この秩序から脱落する人々がいる。王権による「平和」は脱落する人々に強いられる不正・不公平を覆い隠しさえする。
旧約の信仰者が「正義」と「まこと(公正)」を強く訴えたのは、すべての人がシャロームにあずかる日の到来を、神が望み、約束してくださるゆえのことである。
シャロームを前方に捉え、祈り求めるものでありたい。

松戸教会 村上恵理也


2020年7月

文語で味わうみことば 51


一般に、大勢の人の目に映え、皆が目指し、押し寄せるところを狭き門と呼ぶ。それゆえ競争相手を押さえてこれを突破することには称賛と優越が伴う。
一方、主イエスが「入れ」といわれる狭き門は、皆が目指すところではない。「狭い」とは旧約の言語に置き換えれば「ツァル」(ヘブライ語)。「苦難」や「窮乏」という意味をもつ。また、新約の言葉で「セテノス」(ギリシア語)には「気づかれない」という意味も加わる。
今、目の前にある苦難。これこそだれも選び取りたいとは思わない苦難である。ただ、今やこれはだれの目にも明らかな周知の苦難であり、「気づかれない」苦難ではない。
我々は眼前の苦難に心を奪われるあまり、本当に選び取るべき狭い門、主イエスが「入れ」と促される門を見失うことがないようにと願う。明らかな苦難の内に、外に、未だ気づかれない入るべき門があるのだろう。
松戸教会 村上恵理也


2020年6月

文語で味わうみことば 50


詩編一二〇編から一三四編には「都に上る歌」が並ぶ。ある者は捕囚の民として異国の地で都を思い起こし、ある者はいつ癒されるかも知れない病の床で主の家を慕い、またある者は戦いのただ中で礼拝を焦がれる。今、これら信仰者の詩の背後には総じて苦難の経験があることを知る。
教会とは教会堂という建物や場所のことではない、と言い続けてきた。これからもそう言うであろう。しかしまた、地上における教会は神の民の家であり、皆が集う実在の場所でもある。これを無視して教会を語ることができるだろうか。
「主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった。」かつての「喜んだ」(口語)という訳文が「うれしかった」と改訳されたとき、あまりにも無邪気な訳のように思われた。けれども礼拝堂から離れる日々を経て、今は「うれしかった」の響きがこの胸に迫る。

松戸教会 村上恵理也


2020年5月

文語で味わうみことば 49


霊が「弱いわたしたちを」助ける。もとの言葉を素朴に訳せば、霊が「わたしたちの諸々の弱さ」を助ける、となる。わたしたちはひとつではない、いくつもの弱さを担う者である。その現実をいつになく突き付けられる日々に身を置いている。
この「諸々の弱さ」を担う者を助ける霊は、「言葉に表せないうめきをもって」執り成すという。
わたしたちの弱さから生じる言葉にならないうめきを、整った祈りの言葉にしてくれる、というのではない。うめきを止める慰めの言葉をかけてくれる、というのでもない。霊の助けは、わたしたちのうめきを共にうめくという仕方でもたらされる。
泣く子の気をそらし、涙を止めるのではなく、泣く子の涙の傍らに伴い続ける。この霊の助けを知るわたしたちは、今、「泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙 12章15節)と呼ばれている。

松戸教会 村上恵理也


2020年4月

文語で味わうみことば 48


敬愛する皆さま
いかがお過ごしでしょうか。突然にも日常が失われ、
心細さに疲れも重なる頃ではないかと案じています。
今、ご自分の体のみならず、隣人への配慮をもって、その場に留まる方に、主の励ましが豊かであることを祈ります。教会の礼拝は世間のいう「不要不急」には当てはまりません。しかし同時に「礼拝のかたち」は一つではありませんから、わたくしどもは与えられた自由をもって、留まり、祈ることをもってともに神を仰ぐことが許されます。
今しばらく対面することはかなわなくても、主にあって思いを通わせ励まし合いたいと思います。そのようにして再会の日を心待ちにしましょう。
わたくしどものなえる心も、弱い足取りもすべて知り、ともにいてくださる主のゆえに、天を仰いで歩みたい。

松戸教会 村上恵理也


2020年3月

文語で味わうみことば 47


若者の定義は、古今東西、変わるもので漠としている。二十歳、十八歳と年齢で線引きできるものでもない。
一方、聖書の描く若者は「金持ちの青年」に象徴される(マタイ福音書十九章十六節以下ほか)。彼は若さ、見識、地位、財産と、あらゆるものを持ち合わせている。しかし、否、それゆえに、主イエスの前から悲しく立ち去る。
あらゆるものを持ち合わせるゆえに、持てるものを誇り、それに依り頼む者。聖書はこれを「若者」と呼ぶ。いよいよ年齢により線引きできるものではないし、すべての者がこの「若さ」を持ち合わせているのだろう。
それを承知のうえで、今あえて、いわゆる若い人に、上掲の詩人の言葉を贈りたい。来るべき春を、充実した日々として迎えてほしい、その祈りを込めて。
深く海底に錨(いかり)を下ろす舟は、荒海に浮かんで流されることはない。

松戸教会 村上恵理也


2020年1月

文語で味わうみことば 46


第十戒はいわゆる窃盗の類を禁じる。幼き日、「人のものを取ってはいけません」と教えられた、あの響きに近い。その取ってはならぬ「もの」の中に、「ひと」が含まれるのは、現代の感覚から離れているようでいて、今ほど、人がもの扱いされていることに警戒を要する時代もない。
『ハイデルベルク信仰問答』は、第十戒のこころに迫るために、「それでは、この戒めで、神は何を命じておられるのですか」と問う。何が禁じられているかをではなく、より積極的、能動的に、何が求められているかを問う。そして答える。「わたしが、自分にでき、またはしてもよい範囲内で、わたしの隣人の利益を促進し、…困窮の中にいる貧しい人々を助けることです」と(問111、吉田隆訳)。
人のものを取らなければよい、にとどまらず、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ福音書7章12節)との主の言葉に聴く。そこに第十戒を戴く、人の能動的な生き方がある。

松戸教会 村上恵理也


2020年1月

文語で味わうみことば 45


「虚妄の證據」とは「偽証」と口語化されるように、日常のやりとりでのウソ、ゴマカシの類ではなく、法廷における証言を偽ることだという。監視カメラの網が張り巡らされていない時代、人の証言が大きく判決を左右した。証人のひと言により、ひとりの人の有罪、無罪が定まり、そのひと言により、人の尊厳が損なわれることも、守られることもあった。
では、この「偽証」の禁止は、法曹にかかわる人に対してのみに向けられたものなのか。この戒めは、証人として出廷する人に限定されるのか。そうではない。
今や、公開人民裁判がそこかしこで開廷されている。インターネット空間で、町場で、電話で、職場で、家庭で、酒場で・・・。うたかたの正義感に酔いしれ、根拠なき推測と噂で人を貶める。
「隣人に関して偽証してはならない。」この年、わたしはいかにスマートフォンを握り、人々の間に立とう。
今、このわたしに、キリストの憐れみを乞い願う。

松戸教会 村上恵理也


2019年12月

文語で味わうみことば 44


第八戒「盗むなかれ」は、第十戒「隣人の家を欲してはならない」と混同されがちだが、前者は誘拐、監禁など、人の自由と尊厳を毀損する行為を禁じ、後者は窃盗、着服など、人の所有を犯す行為を禁じている、と説明される。
誘拐などと言われると、自分とは関係のない事柄と考えるが、それを他人の身体行為を制限し、精神活動を抑圧する行為に分解すれば、だれもがその一端の加害、被害の当事者にならないという保証はない。
親子、夫婦、兄弟、友人、同僚…、あらゆる人のかかわりにおいて、相手の時間、行動や思考を盗んではいないか。胸に手を当ててみる。
ベツレヘムの人々は、明確な悪意を持ち合わせなかったが、結果的に、赤子の主イエスを飼い葉桶に追いやった。
「知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください」(詩編十九編十三節)。
今、このわたしに、キリストの憐れみを乞い願う。

松戸教会 村上恵理也


2019年11月

文語で味わうみことば 43


姦淫とは「不正な男女の交わり」と辞書はいう。おおよそいわれていることはわかるが、漠然ともしている。旧約の世界では、これがある意味明瞭であった。それすなわち、男性が、既婚女性や、嫁ぐ相手の決まっている女性に目をとめ、他の男性の結婚を破壊することである、と。第七戒は、これを禁じる戒めとして、共同体の存立を保持するための社会倫理的な規範として役割を果たしたのだろう。
姦淫とは何か。古今東西、人は、それを定義しようとする。それ自体、社会規範として必要なことであろう。一方、人の愚かさは、その定義を盾に、その枠に収まらない隙間を見つけ、言い逃れの道を確保し、自らの欲求を満足させようとすることにある。
主イエスはいわれる。「みだらな思いで他人の妻を見る者は、すでに心の中で…。」姦淫に限らない。人はこれが悪事と線引きすることによっても、新しい隠れた罪を生み出す。主イエスはいつも心を問われる。

松戸教会 村上恵理也


2019年10月

文語で味わうみことば 42


人は人を殺してはならない、という言明に皆うなずく。しかし、人はこれをどれほど自分に関わる言葉として受けとめるのか。他称による殺人行為への嫌悪を補完する言葉程度に受けとめてはないか。
主イエスはこの言葉を革新的に読み込まれた。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」(マタイ五章)。主イエスはこの言葉を、行為としての殺人の禁止のみならず、おおよそ人の心根にある悪意の芽を問題にする言葉と読まれた。行為としての殺人と心の中の立腹を並べることにより、これはすべての人に向けられた言葉となった。
新共同訳では省略されている「汝」が肝要である。あなたは殺してはならない。この言葉をほかのだれでもない、わたしに向けられた言葉として読む。

松戸教会 村上恵理也


2019年09月

文語で味わうみことば 41

 解釈の余地のないほど明瞭な言葉。兄弟、友人がいない(という)人はいても、父母がいない人はない。この父母への敬いは「愛をその中に含んでいるばかりでなく、いわば、そこに隠れている権威に対しての礼節、謙譲、畏怖の念をも含んでいる」し(ルター『大教理問答』)、年老いた両親をよく面倒見る、いわゆる介護の義務を含んでいるという。
一方、敬いを受ける親にも義務が伴う。「きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない」(申命記6章6・7節)。
子は親を敬い、親は子に神の言葉を語り聞かせる。どちらかを強調するのではなく、それぞれが自らの義務を知り、それを果たすところに、神のこころにかなう親と子の関係が立ち現れる。

松戸教会 村上恵理也


2019年08月

文語で味わうみことば 40

 安息日(シャバット)。それは天地創造の昔、すべての被造物が神との交わりに安息を得たことを喜び祝うために、神が人に与え給う時間。旧約の民はこれを週の終わりの土曜日(前日の日没から当日の日没)とした。後の教会は、キリストの甦りにこそまことの安息があるとの確信から、復活の朝、日曜日を主の日としている。
主はこの日を「聖潔すべし」と教えられる。「聖」とはもとの言葉で「区別する」という意。神の民は、十戒の中、最も多くの文言があてられる安息日規定を重んじ、この日を他の日と明確に区別した。
ユダヤの民は離散を経験してなお、自らが何者であるのかを意識し続けた。どんなときにも安息日を守り続けることによって。ところが、ユダヤの民はいう。「ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、安息日がユダヤ人を守ったのだ」と(ユダヤの格言)。
主の日を守る者は皆、主の日により守られている。

松戸教会 村上恵理也


2019年07月

文語で味わうみことば 39

 神の名について文語訳は「ヱホバ」と表記し、新共同訳は「主」と訳出する。これは神の名を表わす聖四文字、(アルファベットで表わせばYHWH)にいかなる母音を当てるかによる。かつてはYeHoWaHと考えられたが、今はYaHWeH(ヤーウェ)と読み、これを新共同訳は「主」と表記する。
神の名を巡る混乱は、旧約の言語ヘブライ語に母音表記がないことによる。読まれなければ、何と発音したのか伝わらない。にもかかわらず、「主の名をみだりに唱えてはならない」ゆえ、これを口にしない人々がいた。彼らは神を「神殿」や「天」と言い換えることにより、主の名をみだりに発音しなかった。
「みだりに」とは「自分勝手に」ということ。神の名を打ち出の小槌のように考える愚かさ、神の名を自分の意のままに持ち出す人の身勝手さへの警告がここにある。

松戸教会 村上恵理也


2019年06月

文語で味わうみことば 38

 偶像(べセル・ヘブライ語)の語源は、掘る(バーサル)にあるという。それは木であれ、石であれ、人の手が彫り刻む神ならぬ神。出エジプトの旅路、民はモーセ不在の不安から金の子牛を造り、それを伏し拝んだ。
教会には金の子牛も、神をかたどった像もない。それゆえ、我々は偶像礼拝から自由であるというかもしれない。ところが、あなたの心がしがみつくものは何であったとしても、それがまさにあなたの神です(M・ルター)、との言葉を前にすれば、信仰者はすべて己が身を省みずにはいられない。
偶像とは人の手ではなく、人の心が造り出す産物なのだろう。最も大切なのは、目に見える形をとっているか、否かではない。我々が何に重心を傾けているのか。主なる神を礼拝しているのか。それが常に問われている。

松戸教会 村上恵理也


2019年05月

文語で味わうみことば 37

 神のみを神とする。ときに教会の信仰が一神教と表現されるとき、その根拠に十戒の第一戒があげられる。事実、これを共有するキリスト教、ユダヤ教、イスラム教は唯一神教である。
ただ、少なくとも第一戒が求めるのは、世に神々と呼ばれる存在のあることを否定することでも、それを破壊することでも、ましてやそれを信仰する人を蔑むことでもない。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とあるように、ここに問われるのは、ほかでもない、神と「あなた(わたし)」の関係である。
パウロもいう。「たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです」(コリントⅠ八章五-六節)。今、神の御前で「あなた」の信仰が問われている。

松戸教会 村上恵理也


2019年04月

文語で味わうみことば 36

 いわゆる十戒の前文。神は出エジプトの旅路にあるイスラエルの人々に十戒を授けるに際し、これを告げた。それは「わたしは主・・・あなたを・・・奴隷の家から導き出した神である」との神ご自身による自己啓示。ここにはまずもって、主なる神がイスラエルの人々を奴隷の家から導き出された方であることが述べられる。
十戒(戒め)と聞けば、否応なく押しつけられる戒律の類いという印象を受ける。けれども、十戒に前文があることを思うとき、この印象は砕かれる。
神は、わたしの戒めに従え。そうすればあなたを救い出す、とはいわれない。わたしはあなたを救い出した。そのわたしの戒めに従え、といわれる。イスラエルの人々の信仰の旅路には、先立つ神の導きがある。
人の信仰に先立つ神の恵みを信じ、恵みに応えて進む、そこに信仰の旅路がある。

松戸教会 村上恵理也


2019年03月

文語で味わうみことば 35

 小高い丘に立つ三本の十字架には、真ん中に主イエスが、その両側に二人の犯罪人がはりつけられた。
犯罪人の一人は主イエスを口汚くののしっていう。メシアなら自分自身と我々を救ってみろ、と。すると、もう一人がたしなめていう。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
自らの終わりを間近に、愚かさに愚かさを重ねる人がいれば、自らの愚かさを思い悔い入る人がいる。
悔いる人はいまわの際で主に願う。「わたしを思い出してください。」この人は、御国に入り得ない自らを思うゆえに、主に思い出されることを最後の願いとした。しかし、主の答えは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との約束。
御国に入り得ない自らを思いつつ、ただ主によって御国を確信する人の幸い。

松戸教会 村上恵理也


2019年02月

文語で味わうみことば 34

 やがて信仰の父と記憶されるアブラムに臨む主の言葉。それは、齢七十五のアブラムに新しい旅立ちを促すもの。「父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」アブラムはこれに応えて、亡き父の眠る地、ハランを後にした。
一八九一年、北米の宣教団体スカンジナビア・アライアンス・ミッションの宣教師十五人が日本に上陸した。その中には婦人宣教師(信徒)の姿もあった。また、来日後まもなく天然痘に死す者もいた。それは御国における主のねぎらいのほか、何らの保証もない宣教旅行。
彼らが伝道地を選ぶ基準は一つ、行くことが困難であるゆえ福音が未達の地。一八九九年、二人の婦人が飛騨地方に入ると、ある人は伊豆諸島へ、ある人は房総半島へ旅立つ。この宣教師の旅の延長線上に松戸教会は生まれる。
アブラムを、そしてあの宣教師を立ち上がらせた主の声が今なお響く。それを聴く者は老いも若きも、男も女も、教師も信徒も、それぞれの宣教の旅を始める。

松戸教会 村上恵理也


2019年01月

文語で味わうみことば 33

 捕食の頂点に位置する猛禽、鷲を思えば、その鋭い爪で獲物を捕らえる姿が脳裏に浮かぶ。その鷲がここに、荒れ野を旅するイスラエルを導く主なる神に重ねられる。
子鷲が飛び始めるころ、親鷲は巣をかき立て、子の上を舞いかけり、巣立ちを促すという。大きく翼をはためかせて、こうして飛ぶのだと。子はこれに応え巣立つ。ところが、途中力尽きると、親鷲は翼を広げて子を捕らえ、背に乗せて助ける。
このような行動が鷲一般に見られるのか諸説あるが、鷲の生息地シナイを旅したイスラエルの人々は、鷲の姿を見て、主なる神の守りを思った。旅の途中、神への信仰においても、隣人への信頼においても、力尽き、落下するほかない自分たちを神は守ってくださる。下から支えてくださる。この神の支えにより全うされたのが、出エジプト、荒れ野の四十年の旅路。
新年、神の促しに飛び立つ者に、神の強い支えがある。

松戸教会 村上恵理也


2018年12月

文語で味わうみことば 32

 主なる神を王として迎える喜びの詩。詩人は、諸国の民が、かつて神の救いを見、今喜びの叫びをあげ、やがて来たる正義の完成を見るとうたう。昔も、今も、とこしえまでも、神を王として迎える者の幸いは変わることがない、と。
この詩に誘起され生まれたのがキリスト降誕を祝う歌、Joy to the world。旋律は「もろびとこぞりて」(讃美歌 一一二番)として知られる。一方、歌詞は「もろびとこぞりて」と近しい内容ではあるが、厳密にはそれそのものではない。原詩はイギリスの牧師アイザック・ワッツ(Isaac Watts 1674-1748)による。彼は詩編九十八編を、人を罪の縄目から解き放ち給うキリスト、まことの王を迎える喜びの詩と捉え、新しい詩に編み直した。
クリスマス。キリストを王と迎える教会に、喜びの叫びが響き渡る。Joy to the world, the Lord is come! 主は来ませり。喜びの声をあげて主を迎えよう。
それは止むことがない。

松戸教会 村上恵理也


2018年11月

文語で味わうみことば 31

 ダビデが息子アブサロムの大逆により都落ちすると、だれもが「彼に神の救いなどあるものか」とささやいた。これにはダビデも深い嘆きを吐露する。「主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか」と。
しかしダビデはこうもうたう。「あなたは…わたしの頭を高くあげてくださる」。頭をあげるとは、元気を取り戻すということ以上に、名誉を回復すること。ダビデは、神により名誉を取り戻す日を信じて疑わない。
実際、ダビデの名誉は不思議な仕方でつながれる。逃亡の道マハナイムでのこと。寝具にたらい、陶器に小麦と、ダビデのもとに生活必需品を運ぶ者が現れた。決して多くはないがアブサロムの手をも恐れずダビデに駆け寄る者がいた(サムエル記下十七章二十七節)。
神は、どんなときにも側にいて励ます友を送ってくださる。今や御国の住人として安らうあの人も、この人も、神の慰めと励ましを届けてくれた人。

松戸教会 村上恵理也


2018年10月

文語で味わうみことば 30

 月初めには世界聖餐日、終わりには宗教改革記念日の 定められる十月。
かつて宗教改革者マルティン・ルターはラテン語聖書を自国語に翻訳し、その説き明かしとしての説教を重んじた。それゆえ、この系譜に連なるプロテスタント教会は、今なお御言葉の説教を礼拝の中心に据える。
と同時に、宗教改革者らが聖礼典(洗礼と聖餐)を重んじたことも繰り返し確認したい。同じルターは祈る。
「私は、神様の御言葉によって私の罪から解放されています。私は、自分の罪から自由になり引き離された、との宣言を受けています。さらに、私は、主イエス・キリストのまことの身体とまことの血のサクラメント(聖餐)という、確実な恵みのしるしによって、(霊的な)飢えと渇きを癒していただきます。」(高木賢訳)
「味わい、見よ、主の恵み深さを」。教会は、主の恵みを耳で聴くばかりではなく、目で見、口で食す。

松戸教会 村上恵理也


2018年9月

文語で味わうみことば 29

 「主よ、早く答えてください。・・・
わたしはさながら墓穴に降る者です」(前七節)。
自らの墓穴を覗く夜、暗闇の底から、詩人は主の慈しみの伸べられる朝を待ち望む。その慈しみに依り頼む人を、主は闇の底から引き上げてくださると信じて。それゆえ彼はうたう、「あなたに、わたしの魂は憧れている」と。
詩人は神を思い慕う情、憧れをもってその心を高く天に上げる。
人が人生の底を思うときに抱く、もう一つの情がある。それは憧れとは似て非なる、ねたみ。これにひとたび支配された人は、他者を自らの置かれた低みにまで引きずり降ろすことに労力を費やす。
憧れをもって自分を高めるのか。ねたみをもって他者を貶めるのか。人生の底を見る日、人は岐路に立つ。主の慈しみを知る人は、憧れの道をゆく。

松戸教会 村上恵理也


2018年8月

文語で味わうみことば 28


ダビデは息子アブサロムの謀反により都落ちしてなお、身を横たえて眠るという。暗闇に無防備な姿をとれば、 命を危機にさらすことになる。それでもダビデは夜には眠り、そして、また目覚めると、一夜の無事の確信までをもうたいあげる。
今、想像を膨らませるに、ダビデはこの眠りを、未だ主なる神へ信頼を知らぬ息子を思い、彼のためにうたうのではないか。主の支えを信じる生き方を教えるために。
箴言には、父の子に対する諭しとしてこう述べられる。「横たわるとき、恐れることなく横たわれば、快い眠りが訪れる。」(3章24節)父が子に、恐れなき眠りを教える。眠りの教育をもって、信仰を継承する。主が支えてくださるゆえ、夜の無防備を主に委ねるのだと教える。
熱帯夜、暴風雨の夜、孤独を思う夜…。人には眠りの遠い夜がある。羊ではなく、信仰の父、母の姿を数え、思い浮かべながら、主の支えを信じて就く眠りを得たい。

松戸教会 村上恵理也


2018年7月

文語で味わうみことば 27

 聞け(シェマ―)とは、記憶せよとの意。いにしえより今に至るまで、神の民の教育は記憶の教育。親は子に、神の民の歴史を紐解き、唯一の主を愛するいのちの幸いを語り聞かせる。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(申命記同章六~九節)。
その記憶は机上の学習によらず、生活全体をとおして子らに刻まれていく。朝には聖句の収められた小箱を額と左手に皮ひもで括り付ける(テフィリン)。玄関先には全能者をおぼえる飾りをつけ(メズーザー)、出入りする度なで擦り祈る。「神がわたしの出て行くことも入って来ることも,今よりとこしえまでも守ってくださるように」と。
子どもらと生活をともにしながら神を慕う夏を迎える。

松戸教会 村上恵理也


2018年6月

文語で味わうみことば 26

 「喜び」と「楽しみ」はよく似ているが、根本で性質を異にする。「喜び」も「楽しみ」も、人が追い求めるところのもの。一方、「喜び」にはそれに辿り着くまでに道のりがあるのに対して、「楽しみ」には多くの場合それがない。ゆえに、「喜び」を得るには道のりにかける時間と忍耐を要するが、「楽しみ」を得るにはそれを掴む瞬発力があればよい。また、ときに「楽しみ」はお金で手に入る。
詩人は「喜び」を追い求める人を、田畑の収穫にあずかる人に重ね合わせる。種まきに始まり、あらゆる手入れを経て、収穫に至る道のりには、汗があり、涙があり、労苦がある。それでも、その先に「喜び」があることを知るゆえに、否、その先にしか「喜び」がないことを確信するゆえに、涙と労苦の伴う道を選び取る人の幸いをうたう。
分岐点に立つときにはより険しい道を選びなさい。恩師の言葉は、その信仰から発せられた言葉であったと、今さらながら、わかりかけているような気がする。

松戸教会 村上恵理也


2018年5月

文語で味わうみことば 25

 天まで届く高い塔の建設を試みた人々。彼らは石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いるほどに、高い技術を蓄えていた。何より、彼らはその思いを共有するほど巧みに言葉を操ることができた。
「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。」
彼らの言う「天」とは頭上に広がる「空」のことではなく、神の座すところ。その言葉をもって神に成り代わろうと示し合わす人々。神は彼らの間に言葉の混乱(バベル)をもたらされた。
この混乱に再び秩序のもたらされる日が来る。主イエスの昇天後、五旬祭の日、一つ祈る弟子たちの頭上に炎の ような舌がとどまると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らされるままに、ほかの国々の言葉で話しだした(使徒言行録二章)。バベルの再現ではない。彼らは異なる言葉ではあるが、一つ神の偉大な御業を語り始めた。
この口に上らせる言葉をもって、何を思い、何を語るのか。聖霊の助けを乞い求めるペンテコステ。

松戸教会 村上恵理也


2018年4月

文語で味わうみことば 24


御殿場から望む富士に息を呑んだ。その自然の造形美を眼前に、人がそれに心惹かれるのも、ときにそれを霊山として信仰の対象と見なすのも、納得させられる。
詩人も目を上げて、山々を仰ぐ。表題には「都に上る歌」とあるから、それは巡礼の旅の途中で目にした山々であろう。遠くには、進むべき道を示す標となり、近くには、前途に立ちはだかる壁となる。旅人は山々に導かれ、また、その微動だにしない佇まいに自らの弱さ、小ささを諭される。
詩人は山々を仰ぐ。しかし、彼はその肉の目をもって山を捉えつつも、霊のまなこをもっては造り主を捉えている。「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」。人を圧倒する自然を前に、それ自体を頼るべき神聖なものとするのではなく、天地を造られた主を思いその助けを待ち望む。それが詩人の信仰。
動かしがたいもの、人を圧倒して余りあるものを前にしてなお、その背後においでになる方に思いを馳せる。墓石を取り除き給う、主イエスの父なる神を仰ぐ朝。

松戸教会 村上恵理也


2018年3月

文語で味わうみことば 23


「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
十字架の上、主イエスの口から発せられたのは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という絶叫。いついかなるときにも平静を保つことが、宗教家の究極的な姿だというならば、絶叫の主はその対局にある。
それゆえ、こういう説明もされる。これは詩編二十二編の冒頭の言葉だ。主イエスは十字架の上で詩編を朗唱されていた。叫びではない。この詩の結びは「わたしの魂は必ず命を得」るという信頼。主イエスはどこまでも平静を保たれた、と。
主イエスへの敬意ゆえ、主イエスが絶叫されたとは思いたくない人の心がある。
しかし、今知らなければならない。主イエスが担ったのは我々の担うべき十字架であることを。主イエスは、本来我々の叫ばなければならない嘆きを嘆いてくださった。
主がひとり、神から見捨てられる孤独に身を置いてくださったがゆえに、我々はあの孤独を知らない。

松戸教会 村上恵理也


2018年2月

文語で味わうみことば 22

 捕囚から解放されたものの、帰り着いた祖国は廃墟と化している。復興など望むべくもない現実を眼前にしながら、詩人はなおもイスラエルの回復を祈る。
彼の夢見るは「慈しみ」と「まこと」が出会い、「正義」と「平和」が両立する調和の世界の実現。しかし、これが未だ実現せぬ将来への希望として語られることに、実現の困難さが物語られる。
正義は悪を断罪する。ゆえに正しさはいつも平和をもたらすとは限らない。では平和を優先するといって不義を不問に付せば、それは事なかれ主義。正義と平和の調和は、神によりてのみ達成される。
神は正義を貫かれた。イエスに対して。イエスをあたかも罪人であるかのようにみなし、イエスにおいて人の罪を断罪された。同時に神は平和を貫かれた。イエスによる償いをすべての人の罪の償いとみなし、人を死より贖われた。正義と平和が口づけする十字架。受難節が始まる。

松戸教会 村上恵理也


2018年1月

文語で味わうみことば 21


積極的かつ明るい調子の神賛美がうたいあげられる。
その特徴は詩人がひとりうたい始めること。たとえば、同じく神を賛美する詩編二十九編の冒頭は「神の子らよ、主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ」と始まる。多くの場合、詩人は周囲に賛美することを呼びかける。それに対して、この詩人は「沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます」とひとりうたう。
しかし、そのひとりの歌が独りの歌にとどまらず、
「地の果てに住む民」をまで巻き込み、世界大の壮大な 賛美へと広がりゆくところにこの詩の躍動がある。
この年も神の御前に礼拝共同体としての教会の姿勢を保ちたい。そのときに大切なのは、共同体の中にあってなお、ひとり神の御前に立つこと。堂を満たすほどの人がいてなお、わたしは神を賛美する、その姿勢を整えること。その一人ひとりの歌がこだまして世界に賛美がとどろく。

松戸教会 村上恵理也


2017年12月

文語で味わうみことば 20


教会はイザヤの預言の成就を主イエスの降誕に見る。主イエスこそ「ひとりのみどりご」として「わたしたちのために生まれた」方である、と。
訳文に違いが際立つ。新共同訳はその名は「驚くべき指導者」というのに、文語訳は「その名は奇妙また議士」という。後者は「奇妙」と「議士」に名を分ける。
「奇妙」と訳される言葉には「不思議な計画を立てる」という意味があるという。この言葉を一つ、独立した名として(名詞化して)訳出する文語訳の識見の高さを思う。「奇妙」というこの名により、来るべき救い主が人の知恵を超えた不思議な仕方で世に訪れ、人の目に奇妙と思われる仕方で救いを成し遂げる方であることが告白されるのである。
王室のゆりかごにではなく家畜小屋の飼い葉桶に生まれ、病室の床にではなく十字架に死す、キリストの到来を感謝し祝う、クリスマス。

松戸教会 村上恵理也


2017年11月

文語で味わうみことば 19


陽の光輝く昼を創造された神は、闇の夜をも造られた。ゆえに光の昼が神のものであるように、闇の夜もまた神のもの。いのちみなぎる夏が神のものであるように、枯凋の冬もまた神のもの。これが詩人の信仰である。

 冬が来たら 冬のことだけ思おう
冬を遠ざけようとしたりしないで
むしろすすんで 冬のたましいにふれ
冬のいのちにふれよう
冬がきたら
冬だけが持つ 深さときびしさと 静けさを知ろう
冬はわたしに いろいろのことを教えてくれる
冬はわたしの壺である
孤独なわたしに与えられた 魂の壺である
「冬が来たら」 坂村真民

神の備え給う冬を知る信仰がある。

松戸教会 村上恵理也


2017年10月

文語で味わうみことば 18

 宗教改革者マルティン・ルターは詩編一三〇編をパウロ的詩編と評し愛唱した。それが讃美歌「貴きみかみよ」  (54年版258番)の歌詞となっている。
ローマ・カトリック教皇庁より破門され、ヴォルムス帝国議会へ召喚されたルターは、皇帝カール五世の前で自説の撤回を求められた。その場で信仰を貫くことは命の危機に直結する。そこはまさに「深い淵の底。」その場でルターは 「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない」と語り、そして叫んだ。
「我、ここに立つ。私はこうするより他ない。
神よ、私を助けたまえ。」
信仰の歩みには良心の戦いが伴うことを忘れまい。我々は、その火に練り上げられた信仰の遺産を受け継いでいる。これを守り、次に託す聖務を思う。深い淵の底で叫ぶ人の声に神は耳を傾けてくださることを信じて。

松戸教会 村上恵理也


2017年 9月

文語で味わうみことば 17

 喉を渇かす鹿の水を求めるがごとく、神のもとにある霊の泉に潤されることを渇望する信仰者の詩。病か齢か、何らかの事由で神殿の礼拝に参列できない日々におかれているのだろう。詩人はまもなく「いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか」と問い、「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり」と訴える。
しかし、ここに文語訳と並べる新共同訳に接し、はたと気づくのは「涸れた谷に鹿が水を求めるように」とうたわれること。そう、ここに水を求める鹿は、水をたたえた谷にではなく、涸れた谷で喘いでいる。そこにはかつて水が流れていたのだ。しかし今そこに水はない。それでもかつてそこに確かにあった潤いの記憶を忘れず、涸れた谷に留まっている。再び水の流れるのを信じて。
水のある場所を転々と巡るのではない。何もないと思われるそのところで神を信じ待つ詩人の姿がある。

松戸教会 村上恵理也


2017年 8月

文語で味わうみことば 16

 平和(シャーローム)は詩編において27回、旧約全体では237回用いられる、聖書を読み解く上で鍵となる言葉。本来の意味は重層的で、神、人、国、民族の間にある平和、個人的平安、肉体的健康、商業的繁栄、宗教的救い…30以上の日本語に訳し分けられる。それはただ争いのない状態を表わすのではなく、よいもので満たされている状態(しかもその充足へと移される動的な状態)を意味する。
あらゆる悪と暴力が満たされない人の心から生じるとすれば、それを一時、外面的に、時に力をねじ伏せる力によって押さえつけたところで根本的解決にはならないのだろう。
詩人はいう、「主を畏れる人には何も欠けることがない」と。主を畏れる命にまことの充足がある。この充足、シャーロームを知ることこそ平和の始め。

松戸教会 村上恵理也


2017年 6月

文語で味わうみことば 15

 これはイスラエルの王ダビデによる悔い改めの祈りの一節。ダビデは王座の力をもって部下ウリヤを戦場の前線に送り、命を散らせ、その妻バト・シェバを自分のものとした、あの過ちの取り返しのつかなさを、預言者に指摘されたとき、ダビデは祈る。
あゝ神よわがために淸心をつくり(創造し)
わが衷になほき靈をあらたにおこしたまへ
ここに「つくる」(創造する)と訳出されるのはバーラーという語。これは特殊な言葉で、使われるのは、主語が神であるときのみ。
ダビデは知っていた。否、知らされた。罪に悩む自分を救うのは自分ではないことを。人間の自浄能力のおぼつかなさを。それゆえ祈り求めた。神のみにより創造される清い心を、新しく確かな霊を。
新しい期節、神からの霊を祈り求める。

松戸教会 村上恵理也


2017年 5月

文語で味わうみことば 14

 神について、救いについて、聖霊について聖書を読んでもわからない、と聞く。そのような人に、縷々自らの聖書理解を説明したくなる。そしてときにそれを実践するが、消化不良を示す相手の顔つきは目に余るものとなる。神について説明することの限界を思う瞬間である。
神の言葉への全き信頼をうたいあげる、詩人の詩に接し、はたと気づくのは、彼がこれを数値や記号により伝達しうる形式知としてではなく、経験知として語ること。
これ(神の法)を蜜にくらぶるも
蜂のすの滴瀝にくらぶるも いやまさりて甘し
甘さは形式知としての言語により説明することができない。それは砂糖を口にする経験をした者のみが知る感覚。詩人は神の言葉を教えようとしない。蜂の巣の滴りよりも甘い、それを食するようにと促す。

松戸教会 村上恵理也


2017年 4月

文語で味わうみことば 13

 悔い改めの詩編と数え上げられる、七つの詩編の第三番目。ここにダビデは自らの罪に涙して、神に赦しを乞う。
表題に目を向ければ、ダビデの告白するは「バト・シェバと通じた」あの日の過ち(サムエル記下十一章以下)であることがわかる。とするならば、今ダビデが詫びるべきは彼女の夫ウリヤに対してではないか。ところが、ダビデは神に向かい頭を垂れていう、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し」たと。
ダビデは筋違いなことをしているのか。否である。ここに彼はまことの悔い改めをなす。悔い改め。それは人に対して詫び、償いを果たすにとどまらない。その罪を神の前で捉えなおし、悔い、神に立ち帰ることである。
人はしばしば上手に詫び、反省する。しかし、まことの悔い改めに至る者は少ない。受難節の日々も残りわずか。

松戸教会 村上恵理也


2017年 3月

文語で味わうみことば 12

 息子アブサロムの差し向ける追手から逃れるダビデには眠れぬ夜があった。悔しさ、悲しさ、不安、万感うずまく朝の遠い夜。ダビデはほかでもない主に思いを馳せた。
名著『眠られぬ夜のために』は不眠の処方箋と思いきや、眠れぬ夜にこそ我が身を省みるようにと促す。その夜を有意義足らしめよと。しかし、それはただ内省することではなく、自分の平安の源である主と対話することだという。カール・ヒルティはいう。
従って、第一に、自分自身を相手に語ってはならない。それはたいてい、不安を増すだけだからである。できるならば、つねにゆるがぬ平安を与えて下さる神と語るか、それとも、もしそういう人がいるならば、あなたを愛してくれる人たちと語りなさい。
眠られぬ夜に、神と相対する者とされたい

松戸教会 村上恵理也


2017年 2月

文語で味わうみことば 11

 第十戒は他人の所有物を自分のものとする一切の行為を禁じているという。妻や奴隷をここに数えることは、今の感覚では受け入れがたいが、いわゆる人権意識のない時代、この戒めには革新的な響きがあった。
不合法に、あるいは合法を装い、他人のものを自分のものとしようとする人の貪欲には際限がない。アメリカ先住民族の首長の一人、シアトルのものとされる言葉は重い。
ワシントンの大統領は我々の土地を買いたいと言う。しかし、いかに人は空を、土地を、買ったり、売ったりできるのか。その発想は我々にとって奇異である。…我々にとって大地は隅々まで神聖なものだ(一八五四年:拙訳)。
素朴にも人の所有物とは何かを考えさせられる。所有物、それは神がひととき、人に託したもの、賜物である。

松戸教会 村上恵理也


2017年 1月

文語で味わうみことば 10

 嘘をついてはいけません、とは幼き日に学ぶ人の道。
一方、「虚妄の證據」とは日常で発する嘘ではなく、本来、法廷の証言における偽り、いわゆる偽証を意味する。遺伝因子鑑定の採用される現代とは異なり、生身の証人のひと言が裁判を決定づける時代、証人の証言は被告の尊厳を守ることもあれば、不当に貶めることもあった。この戒めは、人の尊厳と名誉を不当に貶めることを禁ずる。
サマリアの王アハブは、ぶどう畑を明け渡さないナボトに憤ると、二人のならず者を差し向け、民の面前でこう証言させた。「ナボトが神と王とを呪った」。二人の偽証人のゆえにナボトは石で打ち殺される。(列王記上二十一章)
自分の利益のためには他人の富も尊厳も蔑ろにすることを厭わない衝動への誘惑は、今、市場原理、◯◯第一主義等、名を変え、表層を変えてすぐそこにまで迫っている。

松戸教会 村上恵理也


2016年12月

文語で味わうみことば 9

msg201612 第八戒が「盗むなかれ」と命じるとき、それは誘拐、拉致、監禁など、人の自由と尊厳を毀損する行為を禁じているという。
皇帝アウグストゥスのひと声に住み慣れた地を離れるヨセフとマリア。皇帝の目的、住民登録は力を数で測ろうとする権力者の常套手段。その力の前に二人は風に舞う落ち葉のよう。初めての子を産む地を決める自由などない。
ところが聖書は語る。力ある者の思惑により追いやられたどり着いたベツレヘムこそ神の約束の地であることを。「エフラタのベツレヘムよ…お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。」(ミカ書五章)
神の計画は、人の自由と尊厳を盗み奪い、力を誇示しようする者の思惑をはるかに超えている。神の言葉の成就を信じる者が静かに立ち上がるとき、クリスマス。

松戸教会 村上恵理也


2016年11月

文語で味わうみことば 8

msg201611 姦淫とは男女の不正な交わりをいう。ただ、何をもって不正というかは古今東西理解が異なる。旧約時代、姦淫とは男性が既婚女性と関係を持ち、他の男性の結婚を破壊することをいった。ということは、他人の結婚を破壊しない限りにおいて許容される範囲があったということ。これに従えば、ダビデがウリヤの妻バト・シェバを奪ったことは姦淫となるが、アブラハムが妻サラではない女奴隷ハガルとの間に子を得たことは姦淫とはならない。
何をもって不正というのか。多様な価値観が錯綜する現代、多様な見解があるようである。しかし、何が不正で、何が不正ではないのかという、言い逃れの道を探るような議論のむなしさを思う。この戒めは、理屈をこね回して自分のしていることを正当化しようとする者をあぶり出す。
汝姦淫するなかれ。至極平明な戒めである。

松戸教会 村上恵理也


2016年10月

文語で味わうみことば 7

msg201610 目には目を、歯には歯を。古代世界に見られる同害報復の原則には、憎しみの連鎖を断ち切る知恵がある。その始めはどんなに小さな敵対行為からでさえ、過剰な報復が新しい報復を呼べば、やがて破滅行為に至る。だから目を打たれたら、相手の目を打つにとどめよ、との原則。
悲しいことに、人の世の現実はこの知恵が奏功しない。その上「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」との言葉を前にすれば、人はもはや絶望するほかない。人に憎しみの連鎖を断ち切ることはできない。ただひとり、あの方を除いて。
唾を吐きかけられ、葦の棒で頭をたたかれ、侮辱の限りを受けた主イエス。正当な報復権をもつ方が沈黙のうちに十字架へ。十字架の主イエス・キリストこそ殺すなかれ、報復の連鎖を断ち切られる方。

松戸教会 村上恵理也


2016年9月

文語で味わうみことば 6

msg201608 「父母を敬へ」と命ぜられるとき、人は両親に神に準じる権威を見ることが求められている。「敬う」には、大切にするという意味を超えて、権威への礼節、謙譲、畏怖が伴う。「敬う」には、神を礼拝するという意味までも含まれる。「わたしをおいてほかに神があってはならない」という神が、両親を敬えと命じられることの重さ。
だれひとり両親を経ずに生まれ出ることはない。すべて人の子は両親の前に保つべき佇まいを問われている。
他方、ここでは子に敬われるべき親のあり様もまた問われている。親は子どもを生み、身体的、情緒的、社会的育みをもって、親の責任を果たしているとはいえない。
神の戒めを正しく教え、信仰によって養育する時、
地上における神の代行者としての親の責任を果たしたと言えるのである(ブレヴァード・S・チャイルズ)。

松戸教会 村上恵理也


2016年8月

文語で味わうみことば 5

msg201608 聖日死守はいつしか聖日厳守となり、今や聖日尊守となっているとの分析は肌感覚と合致する。だからとて、昔の人に比べて今の我々は…と安直な自己反省をしても意味はない。なぜなら、信仰者その人がその必要に自発的に目覚めることなくして守られる安息日は虚しいから。それはだれかの大号令によって守られるべきものではない。
離散の民(ディアスポラ)として世界に散ったユダヤの民は異国・異教の地に滞在しようと、自らのアイデンティテイーを失うことはなかった。それは、自分は何者なのか、神の前で確認し続けたゆえのことである。わたしは何者なのか。それはわたしを造られた神のみ前でのみ明らかにされる。ユダヤの民の間には次のような格言があるという。
ユダヤ人が安息日を守ったのではない。
安息日がユダヤ人を守ったのである。

松戸教会 村上恵理也


2016年7月

文語で味わうみことば 4

msg201607 「ヱホバの名を妄りに口にあぐる者」とは、一般に、神を冒涜する者、主の名をもって偽りの誓いをする者、その名をもってまじないや魔術の類にうつつを抜かす者らであるに違いない。しかし、第三戒が念頭に置くのは信仰者、すなわち、日ごろ主の名を親しく呼ぶ者である。
神殿を商売の家にする者、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする者、賽銭箱の前で有り余る中から胸を張って献げる者。彼らは皆、主の名をもってそれをした(つもりでいる)。ところが、主イエスは彼らの敬虔そうな面持ちの奥深くに潜む心根、自分のために神の名を利用するあざとさを見抜かれる。
問われるは、その名にふさわしく生きているか、つまり、神のこころを生きているかである。主は自分のために主の名を持ち出す者を「罰せではおかざるべし。」

松戸教会 村上恵理也


2016年6月

文語で味わうみことば 3

msg201606 古今東西、木や石、土や金属、素材は違えど、人は神仏を形ある像とし、崇拝の対象とする。その動機は出エジプトの道半ば、金の子牛をこしらえた人々に見られる。
旅路を導く人モーセが独り山に登り、四十日、四十夜そこにこもるや、民の不安は膨れ上がる。見捨てられたのか、だまされたのか。モーセの姿を見ることのできない民は、身に着けた装飾品を持ち寄り子牛の像とした。
今、教会に崇拝の対象としての像はない。十字架もステンドグラスも崇拝の対象ではない。それでも、今なお「目に見える確かそうなもの」に寄りかかりたい願望は、信仰者の中にさえ存在する。学歴、職歴、家柄、組織…。
肉の目に捉えられなくとも、昔も今も、「わたしはあなたと共にいる」と語り続けるひとりの神を、信仰のまなざしをもって捉える幸いに留まりたい。

松戸教会 村上恵理也


2016年5月

文語で味わうみことば 2

msg201605
十戒の第一戒は、人を神の前に立たせる。「我面の前に」とは、原語アル(前に)・パーナイ(わたしの顔)の最も素朴な訳でありながら、神の前に立つ厳粛さを十全に表現している。すなわち、神の顔の前に「わたし」が立ち、その間に何ものも挟まない。それが神の前に立つことであり、神のみを神とすることである。神は「わたし」と一対一で向き合うことを望まれる。
信仰者はいうかもしれない、主のほかに神はない、と。しかし、〈あなたの心がしがみつくものは何であったとしても、それがまさにあなたの神です〉(M・ルター)といわれるならば、どうであろうか。
仕事、学業、健康、富、名声…。いずれも大切であるが、これにしがみつくことなく向き合うのは思いのほか難しい。まっすぐに神の顔の前に立っているだろうか。

松戸教会 村上恵理也


2016年4月

文語で味わうみことば 1

msg201604
昔に比べて聖書の言葉を暗唱することが少なくなった、といわれる。聖書のどこに何が書いてあるか、瞬時に検索し得る機械仕掛けの玉手箱のせいなのか。はたまた、溢れる流れる情報としてのコトバのせいなのか。
その理由の詮索は虚しい。少ないと嘆く今こそ、分析や理由づけなしに、みことばの復権のために立ち上がるときである。都度理由を問わず三度の食事をいただくように、いのちを生かすみことばを日ごとに味わい、食したい。
聖書としての品格を保ちつつ、簡潔にして豊かな韻律を有する文語訳聖書は、広く日本文学、思想ほか、諸分野に影響を与えた。この訳文に秘められた不思議な力に導かれつつ、聖書を味読したい。

 ここに始める「文語で味わうみことば」の副題を「声に出して読みたいみことば」としよう。

松戸教会 村上恵理也


2016年3月

主に従う者
十字架を迂回せず

 どんなにきらびやかな美術工芸品として目にしようとも
十字架が元来 処刑の道具であることを忘れたくない
“主よ、とんでもないことです”
一番弟子が打ち消したのも無理はない
十字架に死す者には敗北の二文字が刻み込まれる

 ことあるごと 主は弟子たちに
自らの道が十字架に至ることを語られた
やがて自らの手にする栄光が
十字架を経て与えられる栄光だと語られ続けた

ところが弟子たちは 十字架抜きの復活を
敗北のない栄光を求めた
ひたすら力強い主の弟子であることに誇りを見ようとした

キリスト者であることは、・・・改宗者とか聖徒とかに
自分を仕立て上げたりすることではない
キリスト者であるとは、・・・
この世の生活の中で神の苦しみに与ること(である)

ボンヘッファー/1944年7月18日の手紙(括弧内加筆)

十字架の道を選び取られた主に従う者の求めるべきは
この世の強さ華やかさではなく 信仰者としての立派さでもない
それは十字架の主に従う者として
応分の苦しみにしっかりとどまることである
避けてとおりたいその道を あえて選びとる
そこに神の備え給う新しい生き方のあることを信じて

主の復活を祝うために なお進むべき道がある

松戸教会 村上恵理也

 


2016年2月

十字架の執り成し
主が終わりに立たれる

 旧約では地獄にあたる言葉をシェオールという
それはいわゆる地獄絵図に描かれるような世界ではなく
神から離れた状態 神からの光が差して来ない状態をいう
それはどこか遠く離れた世界ではない

 神から離れたところ 自分しかいないところ
自分を世界の中心に置き 自分の都合で他者を判断し
互いに争い 傷つけ合うところ そこにシェオールがある


お父さんはお母さんに怒鳴りました こんなことわからんのか
お母さんは兄さんを叱りました どうしてわからないの
お兄さんは妹につっかゝりました お前はバカだな
妹は犬の頭をなでゝ よしよしといゝました
犬の名前はジョンといゝます

詩「わからない」杉山平一

祭司長 群衆 ポンテオ・ピラト…
自らの立場を保持しようする者らの暗い連鎖の末の十字架
神を締め出すことに成功したとうそぶく者らの十字架
そこはまさに人の織り成すシェオール
その深い闇の中 主の執り成しがある

父よ、彼らをお赦しください
自分が何をしているのか知らないのです
(ルカ福音書23章34節)

人間の自己本位さの最果てで 人の闇をひとり背負い
神ともにいます新しい世界を創造するために祈る主
神の独り子は世のしんがりとして シェオールを閉じられる

松戸教会 村上恵理也

 


2016年1月

遅々として紡ぐ言葉
縦書きで生きる

幼き日 書初めは 書の心得ない者に暗然たる思いを抱かせた
これに文才の欠如が加わって
原稿用紙の前に座る作文には いよいよ苦しめられた
上から下へ 右から左へ
重く運ばれる手が鉛筆に黒く汚れるのを見ては苛立つ
それは終わりのない時間に思われた

今 パソコンの前でひととおりのことをする
左から右へ 上から下へ
文字のゆがみにも 手の汚れにも気をもむことはない
しかし 滑らかに速やかに文字を打ち込んでは消し去る
その作業を繰り返すとき 手を汚して書いた言葉を
ここまで無駄にすることはなかったと思い至る
それは拙く 遅々として紡ぐ言葉ではあったが
その言葉には何かが伴っていた

だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、
また怒るのに遅いようにしなさい。
人の怒りは神の義を実現しないからです。

(ヤコブの手紙1章19-20節)

何事も効率よくこなすことの求められる日々には
瞬発力がものをいう
けれども 遅いことが尊ばれる信仰の世界がある

縦書きで生きたい
手を汚しても 時間を要しても 心の伴う言葉を携え生きたい
書初めに臨む我が子を見ながら 年頭に思う

松戸教会 村上恵理也