ショートメッセージ2013
2013年12月
霊性の回復
主は神へと至る道を拓くために
前号 この紙面で引用したWHO(世界保健機構)憲章
健康の定義には 二語を加える改定が試みられた形跡がある
そのうちの一語を補って再引用すると次のようになる
健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、
肉体的にも、精神的にも、スピリチュアルにも、そして社会的にも、
すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)
ここに加えられた“スピリチュアル”には定訳がないというし
未だこれが採択されていないところに現代の現実を思う
それでも今あえて改定案の意図を探るとすれば
次のようになるであろう すなわち
人間の健康には 個人の肉体や精神の健全さのみならず
他者との関係性 すなわち社会性の充実もさることながら
さらに スピリチュアルの確保が肝要である と
“スピリチュアル”という言葉には 誤解 曲解がこびりつく
しかしこれは教会でいうところの“霊性”であろう
“霊性”とは 神(永遠)に対して開かれている状態である
わたしは道であり 真理であり 命である
わたしを通らなければ だれも父のもとに行くことができない
ヨハネによる福音書14章6節
クリスマス 神が世に送り給う幼子主イエスは
人の世に父へと至る一筋の道となられた
だからクリスマス キリストにあって神を仰ぐ幸いを喜びたい
松戸教会 牧師 村上恵理也
2013年11月
健康と救い
まことの健やかさを求めて
WHO(世界保健機構)憲章において 健康は次のように定義される
健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、
肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、
すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)
この定義が端的に教えてくれているように
健康とは 身体の問題の有無のみならず
精神的 社会的な状態の充足までもが問われる事柄である
一方“すべてが満たされた状態にあること”を健康というならば
次のような問いも発せられるだろう
では すべてが満たされる状態はあるのか と
福音書には主イエスに出会い いやされた人々が描かれている
彼らの目は開かれ 足は力づけられ 肉体の問題は解決された
しかし同時に福音書は
いやされた人々が 神を賛美し始める姿を伝えている
そう 肉体のいやしは与えられた恵みの一部ではあるがすべてではない
神と共に歩み始める命こそ 主が彼らにもたされた恵みの全体である
いやされた彼らもやがて 再び病を得 死にゆく
しかし 彼らは以前のように 死に向かうことはない
神与え給う病を病み 神与え給う死を死んでゆく
自らの欠乏を孤独においてではなく 神と共に担い始める
ここにまことの健やかさ 救いがある
松戸教会 牧師 村上恵理也
2013年10月
聖なる公同の教会
神 選び分かち給う
使徒信条は聖霊なる神への信仰を言い表す段において
教会を“信じる”信仰に触れる
“我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会…を信ず”と
おおよそ人間の集団は認識の対象となる
ある法人の存在を確認するには 登記所に行けばよい
教会も例外ではなく 登記簿で確認しうる
ところが 教会は 人間の営為によってのみ
認識されるものではない
なぜなら教会は “聖なる”もの
原意に従うなら “区別された”群れだからである
教会を教会足らしめるのは その成員ではなく神である
主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは
あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない
(申命記7章7節)
教会には 神の選びの不思議がある
それゆえ 教会は人間組織として認識されるのみならず
神の選び分かち給う群れとして 信じられるべきである
歴史の中で 教会も組織的ほころびを露わにすることがある
しかし 我々は信じ 忘れまい
教会のまことの創立者にして保持者なる 神のおられることを
松戸教会 牧師 村上恵理也
2013年9月
御業を見た人
主の御業の目撃者としての長老
民の先頭に立ち 出エジプトの旅路を導いた
モーセ そして その後継者ヨシュア
二人の偉大な指導者が世を去った後も
長老たちの存命中 民は主に仕えた
ところがこの長老たちが皆絶えると
主がイスラエルに行われた御業を知らない 別の世代が興り
民は主の目に悪とされることを行い 他の神々に仕えた
(士師記2章6-10節)
長老 それは年配者のことであり
この世により長く生きた人を指す
この長老が存在する間 イスラエル信仰共同体は
主に仕え 健やかに保たれた
聖書の証言する神は 永遠なる方であられながら
有限な時間 歴史の中にその御手を伸べられる方である
それゆえ より長い時間を世で生きる長老は
神の御手の業をより多く目の当たりにすることになる
活力に溢れた若者だけが神に用いられるのではない
主の御業の目撃者として 静かにたたずむ長老もまた
その生きた証言者として 信仰の家 主の教会に
必要欠くべからざる存在である
主は 松戸教会百十年の歴史に介入され 我々を顧みられた
我々の間にも その主の御業の目撃者がいる
新しい季節 主の御業の目撃者の証言に耳を傾けたい
松戸教会 牧師 村上恵理也
2013年8月
信仰により語る希望の明日
見えない事実を確認する教会
震災後という時代を生きる人間は
向かうべき明日の不可視性を突きつけられている
自然のみならず 文明社会そのものの中に秘められた
抗しがたく 破壊的な力により
思い描こうとする明日の到来をいぶかしむ
明日を思うことの中には“明日はないかもしれない”
という予感までもが 自覚の有無にかかわらず入り込んでいる
それは東西の冷戦とそれに伴う核時代が
今日から明日への継続性を疑わせたことに似ている
2013年10月1日 教会創立百十周年記念日を前に
我々は 教会の歩みの“これまで”を振り返り
そしてまた“これから”を展望することになる
明日に繋ぐ 継続性の感覚を失いつつある時代の中
教会はいかにして明日を語ることができるのだろうか
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、
見えない事実を確認することです。」
ヘブライ人への手紙11章1節
自然の可能性によってではなく 人間の可能性によってでもなく
ただひたすら神により拓かれる明日を信じて待ち望む
この信仰に踏みとどまるとき 教会は明日を語り得る
信仰によって 明日を希望として語ろう
先達が語ってきた そのように
松戸教会 牧師 村上恵理也
2013年7月
創立記念日を前に
歴史の振り返りから生じる賛美
「1903年10月1日」を創立記念日とする松戸教会は
まもなく百十周年の節目を迎える
記念日を前後して 諸礼拝 事業の準備を進める今
改めて 節目の年を意識的に過ごす意味を問うとき
一つに歴史を振り返ることがあると思う
刻下 教会史の編纂とまではいかないが
教会の失われた記録資料の収集が行われている
「1903年10月1日」前夜の様子 教会所在地 歴代の牧師…
失われたと思われた過去の記憶が取り戻されつつある
“過去を振り返ることは将来に責任をもつことである”
とするならば 今 我々は
客観的な事象として教会の歴史を捉えることにとどまらず
教会の歴史の中に自らを見出すことをも求められている
絵画や音楽など芸術作品を鑑賞する態度には二つある
一つは その対象と適当な距離を置き
評価 評論する立場から鑑賞する態度
もう一つは その対象の中に取り込まれるようにして
その世界に浸り鑑賞する態度
我々が教会の歴史を振り返るとき
神のみわざがなされた 神の指の跡を見ることになろう
そして その指に触れられた自らを見出すことになろう
そのとき 歴史を振り返る者の口から神賛美があふれ出す
松戸教会 牧師 村上恵理也
2013年6月
教会に生きる―今生けるキリストと共に
ペンテコステを経て つらつら惟(おもんみ)るに
キリストを信じることと 教会につらなることは
切り離すことができない
なぜならキリストを信じることは
キリストを知ること以上の事態であり 観念にとどまらず
信仰者の身体 生活 命そのものにかかわる事態だからである
今 聖書の学びと祈りの会では 聖餐の学びを続けている
そこでは 聖餐が聖霊によりその臨在を知らしめる
今生けるキリストとの出会いの場であることを確認している
我々はみ言葉の説教と共に 聖餐においてキリストにつらなる
教会は聖書の言葉を分析する研究所ではない
さて、イエス・キリストは体をもって復活し、
昇天後も教会を御自分の体としたまい、
教会の中で体的に現臨したまい、
聖餐においてその体を私たちに食せしめたもうています。
私たちはこのキリストの体にバプテスマによって
合体せしめられ、日々そこから生命を受けて生きているのです。
赤木善光『教会的キリスト教』
信仰生活は教会生活である
その中心には礼拝があり そこで解き明かされる説教を耳にし
そしてまたそこで祝われる聖餐を手にし 口にする
我々はこのまさに身体性の伴う教会で
キリストに出会い 触れ 養われ 生かされている
松戸教会 牧師 村上恵理也
2013年5月
子どもを招かれる主―存在そのものにある尊さ
週日 教会の中に入ろうとすれば
屋内園庭で遊ぶ子どもたちの間を泳ぎ渡ることになる
水泳は不得手でも 走り寄る子らの波を浴びるのは楽しい
“鞄の中に何が入っているの”
好奇心に輝くその表情を見ると 鳩でも出してあげたくなる
子の見せる表情の中でも 誕生会におけるそれには比類がない
誇らしそうで 恥ずかしそうで 何とも言えぬ顔つきをする
彼らは偉業をなし その功績を褒められているのではない
その属性や所有する何かを賞賛されているのでもない
ただそこにある存在が喜ばれ 尊ばれる誕生日
主イエスに手を置いてもらおうと 子を連れて来る人々を
弟子たちは叱りつけた
祝福をいただくには早いと まだその“価値”はないと
しかし主はいわれた
「子供たちを来させなさい
わたしのところに来るのを妨げてはならない」
(マタイによる福音書19章13節以下)
人の存在そのものに尊さをご覧になる主は 子を招かれる
そのまなざしに 弟子の思う“価値”は問題ではない
社会の担い手としての子ども
親世代の支え手としての子ども・・・
あらゆるものに価値や役割を見なければ気の済まない世にあって
教会は子どもを子どもとして迎え入れたい
主イエスがそうされたように
松戸教会 牧師 村上恵理也
2013年4月
振り返り気づくこと―復活の主が共に
教会も4月に始まる年度の区切りをもつが
企業や学校ではよりこれが意識される
年度初めの憂鬱のひとつに オリエンテーションがある
とにかくわからない 数か月先まで予定を告げられ
行事の意図や求められる心構えが述べられるが
腑に落ちないのである
それは自転車の練習を始めたときに似ていた
姿勢を正して 下を向かず 遠く前を見る
ペダルを回し続け バランスをとる
曲がるときはハンドルを切るのではなく 重心を傾ける
身に覚えのない助言は 空にのみ響く
ところが すべてが繋がり立体的に浮かび上がって
自分のものとなる瞬間を迎える
そういうことだったのかと
信仰において“わからないこと”は最大の問題ではない
大切なのは その深みに触れる日を待つこと
振り返れば自分の血肉となっていたと悟る日が来る
神がその日を与えてくださると信じ 不可知にとどまること
ここに信仰の信仰たるゆえんがある
「道で話しておられるときまた聖書を説明してくださったとき
わたしたちの心は燃えていたではないか」
エマオへの道の途中 同伴される復活の主を主と認められない
二人の弟子の眼も 時満ちて 歓喜と共にひらかれた
二人が悟る前に 主は彼らと共におられた
松戸教会 牧師 村上恵理也
2013年3月
主の沈黙―問う者が問われる
受難節の真中、3月11日を迎える。この2年間、だれもがかの地に思いを馳せ、祈り心をもって過ごしてきた。その結実が物心両面からなる寄り添いのわざとして、今このときも続けられている。前線の働きがあれば後方の助勢もある。粛々と託された分を果たしたい。
日々移りゆく状況を知らせる報に接する。現地の一進一退の様子を伝えるもの、後退と言わざるを得ない局面を伝えるもの、あるいは物資の援助要請、人的な救援依頼、中には進捗を積極的に伝えるものもあるが、総じて窮状がうかがわせるものである。
同時に、どこからともなくこの事態に至った根源を問う声が聞こえる。だれが、どうしてこの事態をもたらしたのか。確かに、目に見える窮境のもとをたずねれば、単に自然災害というのではなく、人災という側面を見る。事前の備え、震災後の支援とて人のわざであり完全ではない。その責任は適正に問われなければならない。その上で、その問いを続けるときに突き当たるのは、問う側にいる者が同時に問われる側にいるという、明快な線引きの難しさ、その不可能さである。だれがこの責任を正当に問うことができるのだろうか。
十字架の直前、総督ピラトの尋問の前に主イエスは多くを語らなかった。「お前がユダヤ人の王なのか」との問いに、「それは、あなたが言っていることです」と答えるだけで、どんな訴えにもお答えにならなかった。その姿に「総督は非常に不思議に思った」(マタイによる福音書27章)。
問う者を前にして、答えを出さない主の姿がある。結論をもって問う者、保身と思惑をもって問う者、それゆえ焦燥をもって問う者に主は沈黙される。ここに主は黙して語っておられるのではないか。人は怒りや焦りにおいて、神の真実を見極めることはできないと。
無尽とも思われる必要を前に、苛立ちにも通じる焦燥感が脳裏によぎる。問いたくもなる。しかし、十字架を前に沈黙を保つ主の姿を思う受難節、問う者としての自らが問われている。
松戸教会 牧師 村上恵理也
2013年2月
引き受けるべきもの―忍耐を学ぶ受難節
受難節を迎える。主イエス・キリストの負われた十字架の御苦しみを偲ぶ四十日間は四旬節とも呼ばれ、その起源は古く四世紀にも見られる。
この期節、いにしえの教会は洗礼志願者に対して、キリスト者として生きるための教育を施し、断食と祈りに集中することをもって洗礼への備えとするよう奨励した。また、やがて志願者に限らずひろくキリスト者は、自発的に主の苦難をおぼえ、復活の祝いに備えるときとして過ごすようになった。ある者は食を断ち、ある者は嗜好品を控え、ある者は慶事を避け、という具合に生活をかえりみて克己節制に励む慣習も生まれた。そのようにして主の御苦しみのほんの一端でも自らの身に刻もうとしたのである。
それは苦しみ自体を追い求めてのことではない。それは苦しみからさえよいものを創造される父なる神への全き信頼のゆえに十字架を負われた、主イエスに現された新しい命を追い求めてのことである。苦難の中、信頼をもって忍耐する者を、神は見捨てることがない。このキリストの命に現された秘儀を知らされた者が、受難節、主イエスに続き苦難を苦難として引き受ける訓練を自らに課したのである。
人の世は喜びと苦しみを区別したがる。喜びを得るために、あらゆる痛みや悲しみは“お荷物”とみなされ、どんな代償を払ってでも遠ざけるべきものとされる。しかし、痛みと悲しみを寄せ付けない、その状態が喜びなのだろうか。
我々がキリストの十字架から学ぶのは、苦難の先にある喜びである。苦しみから喜びへ。教会の暦の中に身をおくとき、おのずとその道程を辿ることになる。
「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」
(ヘブライ人への手紙10章36節)
この受難節、たとえ痛みと悲しみの伴うことであっても、自らの負うべき分を引き受けたい。苦しみに喜びが、敗北に勝利が、死に命がもたらされることを、十字架の主、キリストが教えてくださったのだから。
松戸教会 牧師 村上恵理也
2013年1月
新しい年も――行きつく頂点であり、源泉としての礼拝
正月には不思議な力がある。時計の動きが特別変わるわけではないけれども、大晦日と元日の間には何かがある。年が明ければ、前を見て進みたい、そんな気分にさせられる。かといって何か新しいことを始めようと思ったわけでもない。この元日には“いつものこと”を大切にしようと素朴に思った。
いつものことを大切に思うことができる。この感覚は与えられた恵みとしかいいようがない。何も目新しいことや風変わりなことを門前払いする信念をもっているわけではない。それでもごく自然にいつものことに留まろうと思うのは、いつものことの中に新しさを見るまなざしを与えられているからだと思う。
ローマ・カトリック教会が第二ヴァチカン公会議を経てまとめた文書の中に、「聖なる典礼に関する憲章」(1963年)がある。その中にはカトリック教会の典礼をめぐる深い省察がある。典礼とは我々でいうところの聖餐にあたるのだろうが、今それをあえて聖餐を含む礼拝と置き換えて考えてみる。
その一節におおよそ次のような省察がある。
「典礼は教会のすべての活動を包括しない」。つまり、礼拝が教会の活動のすべてではないという。確かに教会は神を礼拝するが、それだけではなく人に伝道し、人に奉仕する。教会の活動は日曜日の朝という時間に拘束されない。このことが確認された後、次のように続く。「しかしながら、典礼は教会の活動が行きつく頂点であると同時にそのすべての力が湧き出る源泉でもある。」 (『聖なる典礼に関する憲章』1-1-10 和田幹男訳)
礼拝は教会の活動のすべてではない。にもかかわらず、礼拝に教会の目指すべき頂点があり、礼拝に教会の活動を活動足らしめる力の源泉がある。私はこの一節をそのように読んだ。
時折、礼拝に集中する教会の姿勢が消極的な論調で語られることがある。いわんとすることはわかっているつもりだ。教会は礼拝していればよいのではないということだろう。それでも私は今あえて礼拝に留まろうと思う。なぜなら、まことの礼拝にはただ内向きな力が働いているのではなく、そこに集う者を外へと送り遣わす力が働いていると信じるゆえに。まことの礼拝は我々をこの世へ派遣せずにはおかないし、我々の生活はまことの礼拝によって更新されることを必要としている。
「しかしながら、典礼は教会の活動が行きつく頂点であると同時にそのすべての力が湧き出る源泉でもある。」
すべて新しいことは“いつもの礼拝”から生じると信じている。
松戸教会 牧師 村上恵理也