聖書を新しい言葉で
聖書を新しい言葉で (9)
『新共同訳』とこれに続く『聖書協会共同訳』をクリスマスに関連する訳語で読み比べます。
降誕物語、主イエス懐妊の知らせを届けた天使にマリアはこう応えます。
「わたしは主のはしためです。
お言葉どおり、この身に成りますように。」
(『新共同訳』 ルカ福音書1章38節)
この中、マリアが自らを指して「はしため」という語句が、『聖書協会共同訳』では「仕え女(つかえめ)」と改訳されます。
『新共同訳』には「はしため」という訳語が53箇所にみられます。一例として、現在読み進めている使徒言行録では「わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(2章18節)とあります。
これを「仕え女」と変えたのは「女性の(翻訳)委員の意見を反映して」と説明されます(小冊子『聖書協会共同訳について』日本聖書協会9頁)。さまざまな立場や属性をもつ読み手が語句から受ける印象を考慮し、不快さを感じる人への配慮がなされていることがわかります。
このほか改訳の事例として「らい病」(新共同訳初期)→「重い皮膚病」(新共同訳現行)→「規定の病」(聖書協会共同訳)、また「お前」(新共同訳)→「あなた」(聖書協会共同訳)があります。
言葉の受けとめられ方は、時代や地域、読み手の状況によって変わりますから、大勢の人の受ける印象に耳を傾け、過度な不快さを与えることのないように調整するのも改訳の役割です。
一方、いわゆる不快語であったとしても、その言葉自体のもつニュアンスを理解しなければ、聖書の文脈や独特の語りかけを捉えることができない、という次のような見解もあります。
…だが原語は「奴隷」(ドゥーロス)の女性形(ドゥーレー)である。ルカの当該箇所では、ドゥーレーの「低さ」が逆転されるということが重要なのだから、身分の低い女性という意味がはっきりと出る『はしため』で良かったのではないだろうか。
(辻学、『福音と世界』2019年7月号、15頁)
是非は別として、新訳の翻訳方針や特徴を捉えておくことは聖書理解の深化につながります。そして、ここにも聖書が礼拝の中で読まれ、説き明かされる意味と必要があるのでしょう。
村上恵理也
聖書を新しい言葉で (8)
現在手元にある『新共同訳』と新訳『聖書協会共同訳』、何がどう変わっているのか、具体的に辿り始めます。まず詩編23編を読み比べます。
(『新共同訳』 詩編23編1~3節)
主は羊飼い、
わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
(『聖書協会共同訳』 同)
主は私の羊飼い。
私は乏しいことがない。
主は私を緑の野に伏させ
憩いの汀に伴われる。
主は私の魂を生き返らせ
御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。
いくつか気づく違いの中、この変更だけでも新しい訳に親しみをもつようになった、との声を聞くのは「主は羊飼い」→「主は私の羊飼い」です。かつての「主はわたしの牧者であって」(『口語訳』)のニュアンスが回復された印象です。
去る宗教改革記念日(10月31日)に思い起こされたマルティン・ルターも詩編23編を愛したといわれます。当時、はからずも教会から異端者扱いを受ける試練の中、孤立をおぼえる日々にあって、ほかでもない主は「私の」羊飼いである、とこの言葉から得る確信はルターを慰め奮い立たせたことでしょう。
これはイスラエルの王ダビデに帰される詩でもありますが、やはり偉大な王ダビデにも「わたしたちの神」を「わたしの神」と告白せずにはいられない日があったのだと想像します。
昔も今もわたしたちを励ます詩編23編を、わたしたちの先達はこうもうたいました。
(『文語訳』1、2節)
ヱホバは我が牧者なり
われ乏しきことあらじ
ヱホバは我をみどりの野にふさせ
いこひの水濱にともなひたまふ
村上恵理也
聖書を新しい言葉で (7)
前述、新しい聖書翻訳、『聖書協会共同訳』に採用されたスコポス理論は、字義的翻訳と意訳的翻訳の混在がみとめられる『新共同訳』の課題を克服するために、「礼拝で朗読される書」という聖書本来の目標(スコポス)を意識した翻訳理論であることを確認しました。
字義的翻訳(≒逐語訳)の長短をみれば、この翻訳では原語(単語、熟語)に対応する日本語は限定的になります。そうすることで、原典ではあの箇所とこの箇所で同じ言葉が使われているであろうと推測しやすくなります。この点、聖書を研究する局面では利があるでしょうし、牧師の説教準備に釈義という原典を忠実に読み込む過程がありますが、そこでも有用です。反面、原語が文脈のなかでもつ独特のニュアンスを掴むには不向きです。
一方、意訳的翻訳(≒動的等価理論)は、原語の意図を汲み取り広い言葉選びができる反面、元の単語を見失いやすくなり、結果、読み手に解釈の幅を過剰に与え、結果、読み手を聖書の意図から遠のけてしまう可能性も否めません。
字義的翻訳がよいのか、意訳的翻訳がよいのか、それは永遠に繰り返される問いのようにも思われます。これに一定の解決を見るために採用されたスコポス理論は、とにかく目標(スコポス)を念頭に置きます。すなわち、これをどこで読むのか、誰が読むのか、何のために読むのか、その朗読を誰が聴くのか、という目標を明確にすることが、さまざまの課題を克服するという。
「翻訳の使命は、原典の意味になるべく近い言葉を提供することではなく、原典が起こそうとした事件を他の言葉でも起こそうとすることであり、原典が表し得なかったことを他の言語において補うことである。」
(『聖書―神の言葉をどのように聴くのかー』(日本基督教団出版局)のなか、カクラン、W・ベンヤミンの翻訳理論の紹介部分引用)。
と記しながらも未だ私には、わかるようでわからない部分が残ります。教会でもいつか専門家を招いて学びの機会を得たいと願っています。
村上恵理也
聖書を新しい言葉で (6)
前回、『口語訳』→『共同訳』→『新共同訳』の特徴を大きく捉えることにより、一口に「翻訳」と言っても奥深さゆえの諸課題があることを見ました。翻訳を重ねる必要はここにもあるのだと思います。
現在、松戸教会が採用する『新共同訳』には、意訳的翻訳と字義的翻訳の混在が認められるという指摘があります。これを克服するべく新しい『聖書協会共同訳』では「スコポス理論」という翻訳理論を基としています。
「スコポス」はギリシヤ語で「目標」という意味です。この理論では聖書の対象となる読み手が聖書を使用する目的を明確にし、その目的のために機能することを翻訳の原理とします。そして『聖書協会共同訳』ではこのスコポスが「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指す」と表現されています。ひと言で、礼拝で用いるための翻訳聖書ということです。
翻って、わたしたちは聖書を「(旧新約聖書は、)神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」(日本基督教団信仰告白)と告白するように、わたしたちが聖書を読むスコポスは、聖書に証しされるキリストに出会うことです。
今改めてわたしたちは礼拝において聖書を読むことの大切さ、それが教会のいのちにかかわる事柄であることを確認します。わたしたちがともに礼拝に集い、聖霊の導きを祈り求めつつ聖書を読むのは、ひたすらキリストとの出会いを渇望してのことです。聖書の説き証しである説教のおもな役割は、聖書の証しするキリストを指し示すことですし、説教に並ぶ恵みの手段としての聖礼典(洗礼・聖餐)の役割も、聖書が証しするキリストの恵みを現すことにあります。
「礼拝での朗読」をスコポスに掲げた『聖書協会共同訳』翻訳の営みは、単に翻訳上の諸課題を克服するためのものではなく、礼拝でキリストとの出会いを果たす、という教会の原点に立ち帰る営為であったということでしょう。
それは自ずと、聖書から宗教、歴史、文化、文学、言語等を学術研究することをスコポスとする翻訳とは異なってくるのだと思います。
村上恵理也
聖書を新しい言葉で (5)
この紙面の目的である『聖書協会共同訳』の特徴―特に翻訳の原則の違いーを捉えるために、『新共同訳』、『口語訳』を比較・考察します。
現在、礼拝で用いている『新共同訳』(1987年刊行)はカトリックとプロテスタント両教会の礼拝で用いられる最初の日本語訳聖書です。これは原典訳聖書と呼ばれ、旧約はヘブライ語底本、新約はギリシア語底本から直接日本語に訳されました。一方、それ以前の『口語訳』は英訳聖書( RSV/改定標準訳)を基調としています。
50人近い人が18年かけて取り組んだ『(新)共同訳』の翻訳作業には、一冊の書物としての一貫性を保つために共通の翻訳理論が採用されました。当初それは「動的等価理論」(dynamic equivalence)であり、原語の意味を捉えたうえで、それを動的に(ダイナミックに)翻訳するという、感覚的にいうならば、意味を捉えるためには意訳を排除しない訳法です。これが『共同訳』(1978年)に反映されています。
ところが、その後『新共同訳』へ至る過程には意訳的翻訳から「字義的翻訳」(formal correspondence)への転換がありました。ただ、それが全面的に反映されることはなかったために、『新共同訳』には翻訳理論の混在が認められるといわれます。先日、コリント前書の学びの場で共有した2つの訳の違いも、このあたりの事情から来ているのかもしれません(2章12節)。
わたしたちは、世の霊ではなく、
神からの霊を受けました。
それでわたしたちは、神から恵みとして
与えられたものを知るようになったのです。
(新共同訳)
それによって、
神から賜わった恵みを悟るためである。
(口語訳)
動的に翻訳することで、意味のわかりやすさ、それゆえの読みやすさは確保されます。ただ、そこにはどうしても、原典にない言葉を補ったり、説明的になったりと原典との距離も生じます。新しい翻訳はこの課題に取り組んでいます。(続く)
村上恵理也
聖書を新しい言葉で (4)
かつて「声に出して読みたい聖書」と、どこかで聞いたような表題で、聖書『文語訳』を辿ったことがありました。「昔の訳には趣があった」、「おぼえやすかった」など、今でも先輩方からはそれを懐かしむ声が聞かれます。その声も意識されているのでしょう。新しい『聖書協会共同訳』の方針には「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語を目指す」が掲げられます。
一例として詩編27編を比べるとこうなります。
主はわたしの光、わたしの救い
わたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦
わたしは誰の前におののくことがあろう。
さいなむ者が迫り
わたしの肉を食い尽くそうとするが
わたしを苦しめるその敵こそ、かえって
よろめき倒れるであろう。
彼らがわたしに対して陣を敷いても
わたしの心は恐れない。
わたしに向かって戦いを挑んで来ても
わたしには確信がある。 (新共同訳)
主はわが光、わが救い。
私は誰を恐れよう。
主はわが命の砦。
私は誰におののくことがあろう。
悪をなす者が
私の肉を食らおうと近づくとき
私を苦しめる者、私の敵のほうが、かえって
つまずき、倒れる。
たとえ、軍勢が私に対して陣を敷いても
私の心は恐れない。
たとえ、戦いが私に向かって起こっても
私の信頼は揺るがない。 (聖書協会共同訳)
「格調の高さ」や「美しさ」を客観的に測ることは困難ですが、わたしには、新しい訳文のなかに詩的な音の拍子や余韻と、意味伝達のバランスへの配慮があるように思われます。この一箇所で判断することはできませんが、「声に出して読む」という点では、かつての諸翻訳と聖書協会共同訳の詩編を並べて読むとそれぞれの特徴が掴みやすいと思います。祈りと同様、たとえひとりのときでも、声を出して聖書を読んでみましょう。
村上恵理也
聖書を新しい言葉で (3)
現在、松戸教会の採用する聖書『新共同訳』の後継書、『聖書協会共同訳』には「礼拝にふさわしい聖書を—31年ぶり、0(ゼロ)から翻訳」という宣伝文が添えられます。そのとおり、30人以上の翻訳者(旧約21人、新約14人)が原文(ヘブライ語、ギリシア語)にあたり、1から(0から)翻訳作業を積み重ねた集大成としての新しい翻訳です。一方、それは翻訳者組織による共同作業ですから、はじめに大きな方針を確認することなしに、一冊の聖書としての統一性をはかることはできませんでした。
共同翻訳事業を始めるにあたり共有された方針のひとつに「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語を目指す」ことがあります。
かつて各国の教会の特徴として、韓国の教会は祈り、台湾の教会は賛美し、日本の教会は勉強する、という表現を聞いたことがあります。これが現在も当てはまるかは別にして、確かに日本の教会は「聖書を読む」ことを大切にします。それも聖書の文字を目で追って読むことを
ところが、欧州や米国の教会では、礼拝時、皆が聖書を手にし開くことなく、ひたすら朗読される聖書の言葉に耳を傾ける伝統があるそうです。ちなみに、教会のなかにはキリスト自身の言葉を含む、福音書を朗読する際には全会衆が起立をもって聴く慣習もあります。
思えば、印刷技術のない時代、聖書の言葉は文字としてではなく音声として伝えられました。主イエスも故郷ナザレで「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」と(ルカ福音書4章16節)、聖書を朗読することを大切にされました。
「礼拝での朗読にふさわしい」訳文とはいかなるものか。次回、並べ比べてみたいと思いますが、わたしたちは聖書を目で読むにとどまらず、口にして朗読すること、転じて、朗読される音声を耳で聴くことを意識するとき、これまでにない神の言葉との出会いを経験するのではないでしょうか。
ともに聖霊の導きを祈り求める礼拝における聖書朗読の重さを確認します。
村上恵理也
聖書を新しい言葉で (2)
聖書を翻訳する担い手は、ひとつではありません。わたしたちが礼拝で用いる『新共同訳』聖書を発行するのが日本聖書教会、いわゆる福音派と呼ばれる教会が用いる『新改訳』聖書を発行するのは新日本聖書刊行会、そして「岩波訳」として知られる『岩波版新約聖書』を発行する出版社も聖書翻訳作業を重ねてきました。
さかのぼれば、幕末から明治にかけて活躍し、日本でヘボン式ローマ字を考案した米国の医師で宣教師であったヘボンは、診察をしながら日本語を習得し、聖書翻訳の基礎作業として辞書『和英語林集成』を出版したうえで(1867年)、1888(明治21)年に聖書翻訳を終えました(新約の責任者はS.R.ブラウン、旧約の責任者はヘボン)。ヘボンの書簡には「聖書を日本語に翻訳するということが、わたしどもの最重要な事業であると、わたしどもすべての者が感じております」と残されているとのことです。さらに、1900年代初頭には左近義弼、30年代には湯浅半月らによる個人訳があります。
『聖書 新改訳2017』
日本聖書協会では、ほぼ30年ごとに新しい翻訳聖書を出しています。『口語訳』は1955年です。続く『共同訳』は新約聖書だけのもので、1978年に出ています。この時に旧約聖書の翻訳が終わっていなかったために、新約聖書だけが出版されました。後に、旧約聖書、旧約聖書続編、新約聖書を合わせた『新共同訳』聖書が、1987年に出版されました。そして今度の『聖書協会共同訳』が2018年。ほぼ30年ごとに翻訳が行われています。
『聖書協会共同訳』の場合には、動的等価理論に従って訳された『新共同訳』聖書の見直しの要望が多くの教会から寄せられたということが大きな要因となって、新しい翻訳事業を進めることになりました。
聖書協会では、ほぼ30年ごとに新しい翻訳聖書を出しています。『口語訳』は1955年です。続く『共同訳』は新約聖書だけのもので、1978年に出ています。この時に旧約聖書の翻訳が終わっていなかったために、新約聖書だけが出版されました。後に、旧約聖書、旧約聖書続編、新約聖書を合わせた『新共同訳』聖書が、1987年に出版されました。そして今度の『聖書協会共同訳』が2018年。ほぼ30年ごとに翻訳が行われています。
村上恵理也
聖書を新しい言葉で (1)
文語訳、口語訳、共同訳、そして新共同訳といえば、日本における聖書翻訳の軌跡です。これに2018年12月『聖書協会共同訳』が続きました。『新共同訳』の発行から実に31年ぶりの出来事です。それから5年以上、いわゆる感染期の対応に追われて(と言い訳にして)、教会としてこの新しい翻訳に注目してきませんでした。そこで今、まずは知ることからとの思いで、この紙面により新しい『聖書協会共同訳』の特徴を捉えます。
・・・・・
宗教改革期、グーテンベルクの活版印刷術の確立と相まって、教会はラテン語でのみ読んでいた聖書を母国語で読むようになりました。1522年、ルターによるドイツ語訳聖書(新約)の出版は画期的なことでした。日本に置き換えれば、平安時代の言葉で読まれた聖書を現代語で読むようになった、という感覚でしょう。
それ以来、聖書を読むことは聖書の翻訳作業と表裏をなします。冒頭の翻訳の軌跡しかり、世界各国で同様の不断の営みが重ねられています。
それにしても、すでに十分理解し得る現代語訳を獲得している、という声も聞こえてきます。しかしながら、大きく次の2つの理由で聖書は翻訳され続ける必要があります。
まず聖書には翻訳される元の底本(原本)の改訂があります。神の言葉としての聖書は、人間の手により一文字一文字書き写されています。その写本としての聖書研究が進む中ではより古い、つまりより原典に近いと推測されるものが発見されます。『聖書協会共同訳』の底本となるUBS(United Bible Societies、聖書協会世界連盟)もいまなお固定されたものではありません。
また聖書学、翻訳学の進展も翻訳更新の動機となります。翻訳には必ず解釈が伴いますが、その解釈に聖書学的な修正が必要となれば自ずと翻訳が変わります。さらに時代や社会の変化により言葉の捉え方が変わることもあり、結果、その意味が理解されない事態も生じます。ほかにも目で追うための翻訳か、声に出して口にするための翻訳か…、と翻訳の奥深さを思います。
村上恵理也