松戸教会の120年

松戸教会の120年 (11)

 日本基督同胞教会の営みの中、特筆すべき事柄のひとつに、活発な日曜学校運動があります。
 毎年、教団総会にあたる年会には、各教会の日曜学校の動静が報告されます。1930年(昭和5年)、松戸教会には毎週平均して10人(男児3 、女児7 )の生徒が出席していたことがわかります。ちなみに、教師は1 人(男性)、教会員数は3 人です。
 一方、同年、京都教会には200人、静岡教会には120人の生徒が出席しています。

 ある年代の方は、教会にある卓球台を記憶しているかもしれません。その発端となる発想は、日曜学校運動から来ているようです。1920年(大正9 年)の機関紙には次の文章があります。

…或る寺院で経営している日曜学校では、テニス器具やピンポンの道具、器械体操の鉄棒なども備へつけ児童及一般人のため本堂なり境内なりを利用している。…我等はできる得る範囲に於いて実行に着手したらと思ふ。

 これが、やがて生徒が青年となる頃、教会から離れるのをいかに回避するか、という文脈で語られると、すかさず次の数項の実行が奨励されます。

一、組の編成をなし自治制を布くべき事
二、言語動作に於いて男らしき模範を示し得る男子の教師を選ぶ事
三、日曜学校又は教会のために責任ある働きをなさしむる事
四、教師は自宅にしばしば生徒を招く事
五、生徒病気の時には之に見舞状を送るか或は訪問する事 (矢部喜好、『同胞』128号)。

 現在のわたしたちの感覚では相いれない、時代特有の雰囲気を感じさせる内容も含まれますが、それにもまして、同胞教会が全体として知恵をもち寄り日曜学校運動に励み、組織的、体系的に生徒に向き合おうとした姿勢には、現在のわたしたちも倣うべきでしょう。これからも子どもとともに歩む、わたしたち松戸教会でありたい。

村上恵理也


松戸教会の120年 (10)

前述、1924年に米国で成立した「移民法」に、日本基督同胞教会は俊敏に反応しました。同時期、機関紙『同胞』の紙面をある程度割いて議論されたのが「宗教法案」です。
これはやがて「宗教団体法」(1939年/昭和14年成立)に収れんされる、国家による宗教管理、統制を探る要素を含む法案で、早くは1800年代終盤に審議されましたが、審議未了を繰り返します。『同胞』が扱う「宗教法案」も第一次若槻内閣のもと招集された宗教制度調査会で審議された「第二次宗教法案」と呼ばれるもので、最終的には審議未了に終わります。
この審議の過程で矢部喜好(やべ・きよし 日露戦争時、日本で初めて良心的兵役拒否を行った人物)は国家による宗教統制に懸念を示しつつも、国家における宗教の必要性を訴えてこう記します。

宗教は心霊の自発的作用から生み出されるもので形式化せられるべき筈のものでない。国教制度や公認教制度を執ることは断じて不可と信ずる。…宗教を抜きにした明治教育の弊が現代精本法案は、昭和14年(1939年)3月23日に衆議院本会議において可決され、成立した界の行詰りを生み出した事を思ふと永く問題になっていた宗教法案が委員間に審議されつつある事は兎に角喜び喜ばしいことである(矢部喜好、『同胞』200号)。

・・・・・

 2019年9月より、日本基督同胞教会史研究会が発足し、同胞教会の歴史資料からその特性を探求する作業が進められています。その中、同研究会々員、藤田和也さん(同志社大学大学院神学部・神学研究科在籍)の分析は、最終的な評価ではないにしても同胞教会のあり様を的確に表現していると思われます。以下、同氏の研究発表「機関紙『同胞』にみる日本基督同胞教会の歩み」より引用します。

 関東大震災の復興においては、日本人の教師が懸命に活動していた一方で、金銭的には米国母教会とミッションに依存していた。また、移民法成立という日米関係に関する問題には敏感に反応し、抗議の声を上げた一方で、第二次宗教法案という教会と国家の関係に纏わる問題に対してはさほど関心がなかった。普通選挙法や大正天皇崩御に関する記事からも、やはり国家との緊張関係を読み取ることはできなかった。

 
村上恵理也


松戸教会の120年 (9)

松戸教会の源流となる基督同胞教会(以下、同胞教会)の特性を探るべく、国内外の社会事象に対する同胞教会の態度を概観しています。
1920年代半ば、機関紙『同胞』において盛んに議論されたのは、米国における「移民法」の成立です。1924年、米国では日本からの新たな移民の受け入れを全面禁止する同法が成立します。いわゆる排日移民法です。
これに紙面では次のような反応が見られます。

①移民法成立の背景には人種的偏見があり、米国の態度は「國際上の反逆者であり國際信義や國際禮儀を辨(わきまえ)えざるもの」である、との激しい非難(小原是馨、『同胞』179号)。
②同法成立の背景には日本国内の人口増加による渡米者の増加があり、日本人移民が「出稼人根性」で日本に送金するばかりで、米国に益をもたらさないという現実もある。しかしながら、これは日本の「兄貴分」である米国のすることではない、との一定の理解を添えた批判(矢部喜好、『同胞』183号)。

 また、移民法問題には紙面での反応に加えて、積極的な行動が伴いました。当時の同胞教会年会総理・ニップは、①1925年11月に行われた米国伝道会社において、移民法への遺憾の意を表す旨が議決されたこと、②米国基督教連盟においても同様の議決がなされたことを報告しています。さらに、当時の同胞教会幹事・安田忠吉は、①翌年米国で解される同胞教会大会(総会)において日米問題を論じて日本の態度を説明することにより、問題解決に寄与したい、との思いを述べています(『同胞』187号)。その後もニップが、人口問題で苦心する日本の状況を米国の人々に伝えたい、と記すなど(『同胞』200号)、当時の同胞教会が移民法問題を深刻に捉えたことがわかります。
この態度は、米国同胞教会の支えを必要とする日本同胞教会の思いと、日本宣教を志す米国同胞教会の思いが相まった結果生じたものと推測します。
この頃、米国伝道会社の補給から自立した「自給教会」を8個つくる、との目標が掲げられる。

村上恵理也


松戸教会の120年 (8)

 日本基督同胞教会の記録から松戸教会草創期の歩みを連想しています。前号では、第一次世界大戦中の機関紙『同胞』の中「国民精神の危機」なる文章から、当時の教会が周辺の出来事に対して示した関心の片鱗を見ました。ただ、これは主筆新山個人の主張のようで、それと教団全体の見解がどれほど重なるかは不明です。
その翌年、1919年には「3・1独立運動」が起こります。2月8日東京神田の朝鮮YMCA会館に集まった留学生による独立宣言(2・8宣言)に始まり、3月1日、京城(現ソウル)に集まった33人の宗教指導者らの独立宣言の朗読により、朝鮮全土をおおった示威運動はキリスト教史に留まらない出来事でした。ところが、この時期の『同胞』はこれに沈黙します―失われた状態にある同時期の年会記録(第19、20回)には何らかの記述がある可能性はありますが、そこに積極的な関心が寄せられていることを予想させる手掛かりはありません―。これに限らず、総じて同胞教会には、教団に直接的な影響のない事象への関心の低さがみられます。

 その点、1923年9月1日に発生した関東大震災に際しては、本所同胞教会の会堂焼失など関係教会に甚大な被害が発生したことからも、その際の活動記録などが数多く存在します。
震災直後、同胞教会は救護部を設置し、数日後には大阪からの慰問団が被災教会を巡り、義援金の受け渡しを行いました。その旅の記録は当時の首都圏の様子を留める資料としても貴重です。その中、松戸教会について次のような記述があります。

  松戸同胞教會には倒壊もなく教会員一同無事。震災民と一緒に不逞の徒の落ちゆくとて一週間ほど全町をあげて不眠の夜警。恰も戦場の感致し候。

『同胞』170号1923年10月1日

 印刷所の焼失にもかかわらず、震災一月後にこれが活字化されていることには、教会の払った高い関心がうかがわれます。その中「不逞の徒」のための「夜警(自警団)」の記述には、無実の人をデマや誹謗中傷によって貶めた日本社会の過ちのただ中に、松戸教会も身を置いていたことがわかります

村上恵理也


松戸教会の120年 (7)

 松戸教会120年の歴史は20世紀を始めから終わりまで駆け抜けた歩みです。それはすなわち同世紀に起きた国内外の世界史的出来事と無関係であるはずもない年月であり、教会はそれらに向き合い、ときに揺さぶられたのでした。

 たとえば、第一次世界大戦を教会はどのように捉えたのか。わずかながら現存する資料にそれを知る手掛かりがあります。休戦一か月前、機関紙『同胞』の主筆新山泰治は「国民精神の危機」を記しました。

  今や戦争の意義は国境の改定、国家の利害にはない。正義と友愛の恢(かい)復、世界的精神の建設、文明の完成に存する。…日本の世界に於ける位置は最早日清日露の時とは違う。愛国心だけでは通らない。人類同胞の愛世界的精神が此国民の感激とはならねば新世界チャンピオンにはなれない。今までの日本人は皇国の為に死ぬる軍人で足りたが、これからは世界のために死ねる武人とならねばならない。…今は既に古い時代の国民道徳即ち国利民福主義、富国強兵主義、其等に追随する御用宗教御用教育が果たして国家の禍とならねば幸いである。ああ時の徴を知る者は誰ぞ。

『同胞』第113号 1918年10月

「其等に追随する御用宗教」の中に同胞教会が含まれているのか、含まれるとすれば、これは自省を込めた記事なのか、それを判定するには戦前の機関紙に当たる必要がありますが、現存する最も古い『同胞』は第108号です(これ以降にも欠損あり)。ただ、同胞教会に宛てた記事の中で「古い時代の国民道徳」からの転換を促す新山の呼びかけから、同胞教会もまた「古い時代の国民道徳」を受容した過去を推察することは許されると思います。

 新山はこの後も「基督者の使命」、「民主主義を超越せよ」との記事を残します。もうしばらくこの時期の記録を辿ることにより、教会が社会事象をどのように語り、また語らなかったのかを探ります。これもまた節目に立つ教会の責務と信じて。
村上恵理也


松戸教会の120年 (6)

 松戸教会固有の歴史資料を欠いてなお、その周辺史から教会草創期の雰囲気を推測します。前述、旺盛な伝道意欲を有した日本基督同胞教会(以下、同胞教会)は、当初から教派の合同を志向しました。それは後代から、教派理解や神学的基盤の希薄さという消極的な評価を受ける一因にもなりますが、当時の指導者は教派合同にある積極的な意味を見ていたことがわかります。当時の機関誌『同胞』に頻出する矢部喜好は、米国における教会成立の経緯から同胞教会の合同性を理解するべきと主張します。

「外形的な教義の相違から分離して新教派を生み出した時代に、内面的な生命宗教の體験(たいけん)から握手したので異端視せられ各自の所属教派からところてんの様につき出されて遂に一教派をつくり出さなければならなかった。…その教會創立の動機とその教會名の意義に於いては遙かに誇りうる。」さらに、「わが同胞教會の創始者たちは自己の信仰に対しては飽くまで峻烈に、他人の立場には寛大な態度をとった。
 これを同胞精神と称してよかろう。行きつまったといわれてゐる現代の基督教會を活かすのはこの同胞精神を發揚することで無かろうか?」「同胞精神の發揚」『同胞』192号1925年11月

 あるいは、矢部のほか合同について述べる本多釜次郎は「基督同胞教會の正統派はアルミニウス派の神學であつて決してカルヴイン派の神學ではない」と主張しつつも、ある講習会にはカルヴァン主義者を招いて「昔のことなど綺麗さつぱりと忘れて手を握って神の國建設人類救済の事業にたづさはるべきである」(「同胞教會の正統性」『同胞』193号1925年12月)とも述べます。これを寛容というのか、寛容というのか、諸見解はあるとは思います。
 そのうえで、今ふたりの主張からひとつ受けとめるとすれば、教会は自ら個教会のことだけではなく全体を広く見渡す視野を有していたことです。
 同じく今「行き詰ったといわれる現代のキリスト教会」の中で、活かすべきわたしたちの「同胞精神」はいかなるものか、問われています。

村上恵理也


松戸教会の120年 (5)

 松戸教会の草創期を知るには―今となれば唯一の資料と言っても過言ではない―日本基督同胞教会(以下、同胞教会)年会記録をあたることになります。現在、この中わずかに残る松戸教会に関する記録を拾い上げ、つなぎ合わせる作業を続けています。これに重ならない範囲で120年前の松戸教会を想像する教派的状況を辿ります。ちなみに、「年会」とは現在の教団でいうところの「教団総会」にあたる意思決定機関です。
 前述、米国同胞教会から宣教師として派遣された中島錦五郎らによる伝道は1895年11月の講義所開所(京橋)を皮切りに東京、京都、滋賀に広がりました。それからおよそ5年後、1901年(明治34年)、同胞教会は第1回年会を神田・東京基督青年会館(現東京YMCA)にて開催します。このために米国より来日したハワード統理議長は、合衆国および日本を含む各伝道地における伝道の進展について述べています。
 第1回年会において興味深いのは、このとき日本メソジスト教会との合同問題が議論されたことです。

 これは一教派としての教理や組織の確立よりも、伝道の前進(キリストにある同胞の獲得)を優先する同胞教会の姿勢を象徴する事象と思われます。
 3年後、1904年第4回年会におけるハワード宣教師による演説にもこれに通じる意識が垣間見られます(以下、一部抜粋)。

「オッターバインは百年の昔、熱心に伝道した。
彼は決して教派を作る考えではなかった。只、
交通不便等の事情により遂に一宗派となった。
故に今日我教会は如何にしてこの日本幾多の
滅びんとする霊魂を救いに導かんか、
これが大切な問題である。」

 当時の同胞教会の教派的状況はそのまま直結しないまでも、120年前の松戸教会を想像する手掛かりとなります。松戸教会は同胞教会の旺盛な伝道意欲に基づく祈りの中から生み出された教会ということができるでしょう。
 教会に組み込まれている伝道遺伝子を確認するような節目を迎えたい。

村上恵理也


松戸教会の120年 (4)

 松戸教会の教派的源流となるキリスト同胞教会(The United Brethren in Christ)は、1895年11月、留学生として渡米し、同教団に属した青年、中島錦五郎、土井操吉、米山梅吉を宣教師として日本に派遣します。
 先述の中島、土井はいわゆる伝道者としての働きを始めました。それに対して、米山梅吉は別の道を辿ります。
 米山は13歳で入学した沼津中学の校長、幕臣でありキリスト者であった江原素六との出会いを果たすと、上京し東洋英和学校(現在の麻布学園)に学びます(江原はメソジスト教会中央会堂福音士、衆議院議員を経た後、同校の校長として死去)。米山は同校で、また銀座の福音会英語学校で英語を学ぶと渡米します。
留学中にはキリスト教信仰に触れつつ、法学を修めます。そして、その地を訪ねた本多庸一との出会いが、帰国後の米山に大きな影響を与えることになります。

以下、ホームページ「青山学院プラス」からの引用。

米山梅吉(1868-1946)は、本多庸一院長時代に青山学院(当時、東京英和学校)に学び、本多の薫陶を受けた後、三井銀行に入行。三井信託銀行の取締役社長や貴族院議員を務めたほか、当時の青山学院財団の常任理事や校友会会長を務める。また、私財をなげうち、「青山学院緑岡小学校」「青山学院緑岡幼稚園」を開校。財政・教育両面で、青山学院を支えた人物である。日本のロータリー(世界を変える行動人)の祖でもある。    以上、引用終わり。
キリスト同胞教会の宣教師として帰国した米山は晩年の勝海舟にも師事しましたが、銀行家、貴族院勅選議員、現在の青山学院初等部、ならびに幼稚園の初代校長、そして日本におけるロータリークラブの創設者として足跡を残しました。ちなみに、日本基督同胞教会の牧師養成は、青山学院神学部と同志社大学神学部が担いました。

以上、引用終わり。

 いわゆる伝道者としての働きをとおしではなく、実業家として日本のキリスト教会の発展に寄与した米山梅吉は、松戸教会の歴史を振り返るときに記憶されるべき名のひとつです。

村上恵理也


松戸教会の120年 (3)

 松戸教会の教派的源流となる基督同胞教会の日本における展開は、米国留学から帰国した青年による伝道に始まります。
 1890年代半ば、留学中に基督同胞教会の信仰に感化を受け、同教会に属したのは中島錦五郎、土井操吉、米山梅吉らでした。彼らは同胞教会の発足から100年ほど経った当時、第一世代となるベームやオッターバインから数世代後の指導者に師事しました。
 1895年11月、米国の基督同胞教会は3人を宣教師として派遣して日本伝道を促します。帰国後、中島はまず京都に赴き日本伝道の計画を策定します。京都や滋賀には今でも基督同胞教会として歩み始めて今に至る教会が点在するひとつの理由です。中島は日本伝道の中心的役割を期待された人物です。
 時を同じく、土井は東京・京橋の借家を講義所として開設し、すぐに「基督同胞第一教会」を設立しました。しかしこれはまもなく不振のゆえに解散をやむなくします。
 第二教会と数えられる駒井沢教会は1896年11月、滋賀県草津町の近在駒井沢村に設立されました。これは駒井富江なる人物が留学の帰路、サンフランシスコで中島、土井と出会い、伝道の志において意気投合したのを契機に設立されます。その背後には駒井の父親であり医師であった駒井昇策の協力がありました―駒井家は早くからキリスト教信仰を有しましたー。しかし、これも滋賀県の草津に開設された講義所に重点が移ることにより自然消滅します。
 このような第一教会、第二教会の歩みが象徴するように、同胞基督教会による日本伝道は決して順風満帆ではありませんでした。また両教会が辿った道のりには中島錦五郎の何らかの問題があったと考えられます。当初、期待された中島は有能な人物であったことが想像されますが、1903年の第3回年会(教団総会)にて「不品行の故」に牧師職を剥奪され、教会から除名されました。除名当時、中島は本所同胞教会の牧師でした。
 もうひとり米山梅吉の足跡を後述します。

村上恵理也


松戸教会の120年 (2)

 先述、松戸教会の前史は普連土会(フレンド派)伝道師・吉田米吉による借家伝道にまで遡ることができます(1898年~)。一方、吉田はまもなく普連土会を離脱すると、日本基督同胞(どうぼう)教会の伝道師となります。
 同教会の源流はアメリカのキリスト同胞教会(The United Brethren in Christ)にあります(以下、Church of the United Brethren in Christ, USA.ホームページより翻訳・要約のうえ引用)。

 1767年、ペンシルバニア州ランカスターにある大きな納屋を会場に行われた伝道集会でのこと。メノナイト派のM・ベームが説教をすると、ドイツ改革派牧師P・W・オッターバインはそれに深い感銘を受け、「我々は兄弟だ」と言って抱擁し合いました。この集会から、ドイツ移民の間にリバイバルが起こると、それはやがてペンシルバニア、バージニア、メリーランド、オハイオのドイツ語を母国語とする教会に広がりました。
 この運動はやがて共通の基準と組織化の必要性を認識すると、1789年には、基本的な協議の概説としての「信仰告白」を著し、また1800年には、総会にて名称を定め、ベームとオッターバインをビショップに選出します。この時点で2人は70代半ばでした。
 その後、教会は西部に広がり、オハイオ州、インディアナ州に及びました。それは巡回説教者による伝道方式で、1815年、説教者はフルタイムの選任であるべきとの指針が出されるまで、 農業従事者が説教者として巡回しました。同時に教会は奴隷制度に反対の姿勢を貫いたため南部への広がりは制限されました(以上、引用終わり)。

 キリスト同胞教会は教派を超えた協力伝道運動から派生した教団であり、特定の教義を共有する、いわゆる教派教会というよりは、リバイバルに象徴される伝道共同体としての性質が色濃くみられます。

村上恵理也


松戸教会の120年 (1)

 教会創立120周年を迎える2023年度、この紙面でも教会の歴史を概観します。
 記録を辿ると、松戸教会の前身は1898年(明治31年)、吉田米吉が始めた伝道にあると考えられます。当時、吉田は「普連土会(フレンド派) 有給伝道師」として松戸町根本の借家を宣教の拠点としました(詳細地不明)。
 吉田がまず属したフレンド派(キリスト友会)は17世紀のイングランドに起源をもちます。彼らは「クエーカー(震える人)」とも呼ばれ、「集団神秘主義(式順序をもたない沈黙礼拝)」、 また当時としては異彩を放つ男女の「平等主義」、そして兵役拒否を含む「平和主義」というキーワードによりその特徴が表現されるキリスト教の一派です。
 この教派が日本に入って来たのは1885年、キリスト友会婦人外国伝道協会から最初の宣教師、ジョセフ・コサンドが派遣されたことによるといわれます。日本人信徒としては国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造、軍事費分の税金支払いを拒否した石谷行(いしたに すすむ)の名が知られています。
 吉田はこの「普連土会(フレンド派) 有給伝道師」として松戸に辿り着きました。ところが、まもなく普連土会を離れ日本基督同胞(どうぼう)教会の伝道師となります。その背後には、日清戦争に対するフレンド派内の主流派、非主流派の見解の相違、外国人宣教師と日本人指導者の関係性を巡る問題のはざまで吉田が下した選択があると考えられます。そのため吉田は「有給伝道師」と位置付けられながらも、ある時期には自給伝道をしたと思われます。ちなみに吉田には筆職人というもうひとつの顔がありました。
 ドイツ改革派教会の流れを汲むアメリカのキリスト同胞教会(The United Brethren in Christ)に連なる日本基督同胞教会については次号に記しますが、同教会が1903年、日本基督同胞教会松戸教会を設立すると、吉田を同教団の伝道師として任命しました。
 松戸教会はこの1903年を創立年と記憶します。一方、「10月1日」については教団による認可日なのか、吉田の着任日なのか、未だ不明です。

村上恵理也