ショートメッセージ 2015

2015年12月

救いの到来
恐れるな

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、
どこにおられますか

東方の賢者の問いかけに 自らの王位の危うさを予感する人
ヘロデの不安の背後には 王座への固執があり
その根源には 変わることへの恐れがある

まもなくヘロデの不安は恐れに 恐れは暴挙に行きつく
二歳以下の男児を一人残らず・・・
その冷徹に震えて人はいう
ヘロデの息子(ヒュイオス)であるより
ヘロデの豚(ヒュス)になりたい
ユダヤ人は豚を食べないから

ヘロデは神からの救いを恐れ拒んだ
なぜなら“救い”とは自らの覇権の愚かさを認め
神の憐みの支配に降伏し 神に立ち帰ることだから
他方 自分自身を覇者として微動だにせず
そのままに満ち足りようとすることを“癒し”という

キリストの到来は “救い”の到来である
クリスマス それは“救い”への招きのときである
自我の王国の保持拡大を求めず そこに籠城することをやめ
そのようにして神に立ち帰る道 br/>
キリストにより拓かれた 救いに至る道を進もう

恐れる者の頭上に み使いの声が響く
恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる

松戸教会 村上恵理也


2015年11月

出会うということ
魂にふれたことがある

十二年このかた 病のゆえに“汚れ”の烙印を押された女性(ひと)
名もなき彼女が人だかりに紛れるように
主イエスに近づき その衣の房にふれたときのこと
彼女は 病気がいやされたことを体に感じた
主イエスは 自分の内から力が出て行ったことに気づいて
群衆の中 自分にふれたひとを執拗に捜した
マルコによる福音書5章29-30節

ひとりの女性(ひと)と主イエスとのこの出会いに
ひととひととが出会うこととは どういうことか
真実に出会うこととは どういうことか 教えられる
それは 一方が他方を知る ということではなく
知る者と知られる者 近づく者と近づかれる者
ふれる者とふれられる者 双方の気づきの経験である


魂にふれたことがある。錯覚だったかもしれない。
だが、そう思えないのは、ふれた私だけでなく、
ふれられた相手もまた、
何かを感じたことがはっきり分かったからである。
二〇一〇年二月七日、十年の闘病のあと、妻が逝った。
相手とは彼女のことである。

若松英輔『魂にふれる 大震災と、生きている死者』

魂にふれた瞬間の記憶は人をいかす
たとえそのひとの姿を肉の目に捉えることができなくても
真実な出会いの記憶は消え去ることはない
墓前に立てば そのことがわかる

松戸教会 村上恵理也


2015年10月

聖なる挨拶
目覚めを驚く

ユダヤ人の間で交わされる挨拶には
シャロームのほかに “ペレー”があるという
朝早く 母親は子に頬を寄せて“ペレー”と呼びかける
目覚めた子は それに“ペレー”と返す
そして“シャローム”と挨拶を重ねる

シャロームが平安を表すのに対して
“ペレー”は“驚き”とか“不思議”を意味する
英語でいうワンダフルにあたる

それは慣習化された挨拶であるが
それが繰り返し交わされることによって意識されるのは
“当たり前”の“不思議”である
朝 目覚めて驚きをおぼえ
昼 知人に会って不思議を思う
小さな挨拶が恵みを知る人格を形成する

1903年10月1日
松戸の地に建てられた教会が 今なお同じ地にある
112年という歳月を経て
ここに毎週 人が招かれ ここで毎週 礼拝がささげられる
この一事に“ペレー”を禁じ得ない

家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった
これは主の御業 わたしたちの目には驚く(ペレー)べきこと
詩編118編22-23節

松戸教会 村上恵理也


2015年9月

メッセンジャーの務め
わたしの人生が

読書の秋 芸術の秋 スポーツの秋…
さまざまに修飾されるこの季節に 教会は“伝道の秋”を加える
神の招きを伝え広めるべく
すべて先に招かれた者は遣わされる

“キリスト者はスピーカーではなく メッセンジャーである”
とは恩師の教え
ときに拡声装置を意味するスピーカー
それは自らを自らの知恵と経験から発話する人のことである
一方 メッセンジャーは伝令
受けとったものを次に渡す使いである

聖書では アンゲロス(ギリシア語)という語がこれに当たる
エンジェル すなわち天使の語源となる言葉
背に羽のある存在が天使なのではなく
神の言葉を携え行く伝令が天使ということであろう

同志社大学の草創期に新島襄を助けた宣教師
ジェローム・ディーン・デイヴィス(1838-1910)は
臨終前 最後の言葉を求める弟子たちに こう語ったという
“私の人生が私の遺言である (My life is my message)”

人を惹きつけ扇動する発言者となることではない
神の言葉を携え 懸命に自らの使命を追い求め
同志に囲まれ静かに眠りに就く
与えられた人生をもって神の愛を伝えること
それがメッセンジャーに託された務めなのだろう

松戸教会 村上恵理也


2015年8月

神の民の祈り
七十年の時が満ちたなら

都エルサレムは廃墟と化し
知識人 技術者から民のおもだった人々は
征服者バビロニアの都バビロンへと連行される
祖国イスラエルの壊滅を見た人は
その虚脱から何をもって立ち上がるのか

神はその民を 言葉をもって励ます
祖国への帰還を約束する言葉をもって
 主はこう言われる
バビロンに七十年の時が満ちたなら
わたしはあなたたちを顧みる
わたしは恵みの約束を果たし あなたたちをこの地に連れ戻す
わたしは あなたたちのために立てた計画を
よく心に留めている       エレミヤ書29章10-11節

七十年の時が満ちたなら 果たされる約束
どうしてこれが彼らを立ち上がらせるのか
七十年後 途方もなく先の話
これを聞く人の中に約束の地を踏む者はない

しかし 神の民はこれを信じ これに慰めを見た
ただひとつ 神が世界を導かれる その信仰のゆえに
子や孫がかの地の回復を喜び祝う日のために祈った

七十年前の誓いと祈りが 今 結ばれているならば
七十年後のために 今 ささげる祈りがある

松戸教会 村上恵理也


2015年7月

一期一会
一度を積み重ねる

茶碗の飲み口を懐紙で拭き 次客に手渡す濃茶の作法は
千利休に始まるといわれる
自身キリスト者であることを公言していないので
司祭やキリシタン武士との接見 信者たる家族の存在という
彼の身を置いた状況からの推測にはなるが
その作法はカトリック教会のミサにおける
カリス※の飲み口を拭いて順次手渡していく所作に
触発されたものといわれる
※カリス…ぶどう酒の杯
最後の晩餐の再現としてのミサ
我々でいうところの聖餐に深い感銘を受けた千利休は
聖餐に茶の湯のこころに相通ずるものを見たのだろう
今ここにましますキリストの現臨を思い
その恵みのしるしを手にし 口にする 健やかな緊張

茶の湯のこころを表現する“一期一会”という考え方も
キリスト教信仰と響き合う
生涯において繰り返し着く茶席は
毎度変わらない点前の積み重ねのようであって
どれも一度しかない
ゆえに一回の茶席は命をかけるに値するものとされる

毎週の礼拝 毎月の聖餐
毎度変わらず 賛美と祈りをささげ 御言葉に聴き
毎度変わらず パンとぶどう酒と手にし 口にする
その席に着く礼拝者のこころを問う キリストの道をゆく

松戸教会 村上恵理也


2015年6月

信仰の成熟
巡るときの中で

クリスマス イースターと並び
教会の三大祝日のひとつに数えられるペンテコステ
常々 その控えめな祝い方は 諾とするにしても
もう少し教会の四季を意識した方がよいと考えている

日本人の宗教性について
劇的な転換よりも 時間をかけて次第に厚みを帯びる宗教心
円環を描きながら徐々に登りゆく感覚が好まれるという
その文脈で付け足されるのが
だから回心を強調する教会の信仰は日本人には馴染まない
という言明である

ほんとうだろうか
回心は教会の信仰の大切な一面にして すべてではない

ある日突然 天の声を聴き それに応えて終わる信仰はない
人生において聖書を手にし 教会の門を叩き
礼拝を重ねながら 次第に聴く耳を養われ
転換のとき 洗礼において神の呼びかけに応えた後も
生涯をとおして礼拝者として その成熟を求めて歩き続ける
この長い旅路こそ 信仰生活の全体である

教会の暦は教会の四季 巡るべき円環状の道のりを告げる
ペンテコステに捉えた集合写真を前に
そこに凛と佇む諸先輩は
幾たび教会の四季を巡られたのだろうと 思い見ている

松戸教会 村上恵理也


2015年5月

“とほほ”感覚
どこに立つのか

説教について 何を どのように語るべきか
考え続けているけれど 答えはいつも出てこない
さらには説教者について となれば うなだれるほかない

分野は異なるが 武道家 内田樹は 時事評論について
面白いものと 面白くないものがあるとすれば
両者にはいかなる違いがあるか 次のように分析する
前者には“とほほ”感覚があり 後者にはそれがないと
時評それ自体がいかに精密かつ正論であったとしても
この“とほほ”感覚がないところに共感は生じないという

たとえば社会体制の不備を指摘するとき
評者は事象の中にいるのか 外にいるのか
評する者には一定の客観性が求められるゆえ
その人は物事を外から見なければならない

他方 外から見るその事象の中に なお自分を見ているか
自らが脆弱さを成す一員であるという“従犯(じゅうはん)感覚”があるか
何事もこの“とほほ”感覚をもって語ることの大切さを説く

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」
という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します
わたしは、その罪人の中で最たる者です
テモテへの手紙一1章15節

ひとりの罪人として語る このパウロの立ち位置に
今 説教者の立つべき場所を見ている

松戸教会 村上恵理也


2015年4月

三日目の朝
いのちの朝が訪れる

十字架に散った主イエス
その身体を葬ったのは金曜日の日没前のこと
陽が沈めば安息日が始まる
一切の人間活動を制限されるその日を前に
主の亡骸(なきがら)は慌ただしく墓に運び込まれた

このまま永遠に続くかのように思われる安息日
愛する人の身体に触れることさえ許されない
墓を向いて座る二人の女のもどかしさは底知れない

しかし 涙の夜を堪え忍ぶ人にいのちの朝が訪れる
三日目の朝 墓へと走り立つ女にみ使いは告げた
「あの方は ここにはおられない
かねて言われていたとおり 復活なさったのだ」
マタイ福音書28章5節

あと三日 生きてみよう
今はまだ つぼみのバラが 大きく花びらを 広げて
甘い香りを 教えてくれるから

あと三日 生きてみよう
降りつづく 雨も やがては 止んで
晴れた空に 虹がきらめくから
坂本のこ 「あと三日」〈抜粋〉

あと三日 生きてみよう 神の拓き給う新しい世界を信じて

松戸教会 村上恵理也


2015年3月

自由の使い方
すべてのことが益になるわけではない

キリストの十字架の苦しみを偲ぶ受難節
教会の伝統の中には 祈りと施しと断食をもって
この期節を過ごすというものがある
自分の時間を神との交わりのために割く 祈り
自分の宝を他者のために差し出す 施し
自分の食する物を遠ざける 断食
いずれにも自分のものを手放す という共通項がある

それも だれに強いられてというのではない
自分の有する権利や自由を自発的に手放すのである
祈りの中 何が神の思いにかなうことなのか尋ねつつ
自由を自由に使う

人は他者を侮辱する自由をもっているという
確かにそうなのだろう
しかし 人はその自由を行使する自由と
行使しない自由をもちあわせている
そして この後者の自由を選び取ることが
十字架を選び取られたキリストに従うということなのだ

「すべてのことが許されている。」
しかし、すべてのことが益になるわけではない。
「すべてのことが許されている。」
しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。
コリントの信徒への手紙一10章23節

神なき自由が人間共同体を築き得るか
今 問われている

松戸教会 村上恵理也


2015年2月

頭を垂れる人
人の理屈に沈黙する

大正期に来日した宣教師は
“いただきます”と手を合わせ 頭を垂れる日本人の姿に
祈る人の姿を見た
そればかりか“ごちそうさまでした”と再び手を合わせる
それは驚きであったとのこと
それがイエス・キリストの父なる神への祈りではない
という冷めた評論はさておいて
そこには理屈抜きに頭を垂れる人がいた

そしてあのふたつの言葉は今の食卓にも大切に残されている

問題は ふたつの言葉に 日本的精神風土でいうところの
山川に宿る“なにか”への畏れがあるか ということ
我々のいうところの
神の恵みに対する感謝があるか ということである
ふたつの言葉は 食事の準備をしてくれた人に対する
お礼にとどまっているのではないか

神を抜きにして 社会的に 科学的に世界を理解できる
と高をくくった人間
その前に立ち現れた 凶悪犯罪 テロリズム
それらに対して人は解説も解決もできない

人の理屈に沈黙し 神の御前に頭を垂れる必要がある
神はいわれた 殺すなかれ
人はこれにいかなる理屈も付け加えてはならない

松戸教会 村上恵理也


2015年1月

頭上一センチ
本当に高くなることがある

年頭に出会った詩にこういう一節がある

 若いときは 背のびをすると 本当に高くなることがあります
杉山平一「木の枝」

たとえば読んでもいない本を読んだことにして議論をする
その後 その本を実際読んで自分のものにする
知ったかぶりも見栄っ張りも “背のび”に違いないが
それをもって本当に成長する時期がある
もはや自分が“背のび”の許される時期にないことを自覚しつつ
それでも 地道に成長を願うことは万人に許されていると思う

説教者の心得として
会衆の頭上一センチをめがけて説教をするように
と教えられたことがある
十センチではなく 一センチ上
信仰においても 聖書理解においても
知らず知らずのうちに教会が成長しているような
説教を心がけよ ということだと了解している
否 それはまた 説教者こそ成長しなければならない
ということであろう
気負うつもりはない
ただ いつも自分の頭上一センチを意識していたいと思う
年を結ぶころには 本当に高くなることを願って

松戸教会 村上恵理也