文語で味わうみことば

2017年10月

文語で味わうみことば 18


 
 宗教改革者マルティン・ルターは詩編一三〇編をパウロ的詩編と評し愛唱した。それが讃美歌「貴きみかみよ」  (54年版258番)の歌詞となっている。
 ローマ・カトリック教皇庁より破門され、ヴォルムス帝国議会へ召喚されたルターは、皇帝カール五世の前で自説の撤回を求められた。その場で信仰を貫くことは命の危機に直結する。そこはまさに「深い淵の底。」その場でルターは「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない」と語り、そして叫んだ。
「我、ここに立つ。私はこうするより他ない。
             神よ、私を助けたまえ。」
 信仰の歩みには良心の戦いが伴うことを忘れまい。我々は、その火に練り上げられた信仰の遺産を受け継いでいる。これを守り、次に託す聖務を思う。深い淵の底で叫ぶ人の声に神は耳を傾けてくださることを信じて。

松戸教会 村上恵理也


2017年 9月

文語で味わうみことば 17


 
 喉を渇かす鹿の水を求めるがごとく、神のもとにある霊の泉に潤されることを渇望する信仰者の詩。病か齢か、何らかの事由で神殿の礼拝に参列できない日々におかれているのだろう。詩人はまもなく「いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか」と問い、「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり」と訴える。
 しかし、ここに文語訳と並べる新共同訳に接し、はたと気づくのは「涸れた谷に鹿が水を求めるように」とうたわれること。そう、ここに水を求める鹿は、水をたたえた谷にではなく、涸れた谷で喘いでいる。そこにはかつて水が流れていたのだ。しかし今そこに水はない。それでもかつてそこに確かにあった潤いの記憶を忘れず、涸れた谷に留まっている。再び水の流れるのを信じて。
 水のある場所を転々と巡るのではない。何もないと思われるそのところで神を信じ待つ詩人の姿がある。

松戸教会 村上恵理也


2017年 8月

文語で味わうみことば 16


 
 平和(シャーローム)は詩編において27回、旧約全体では237回用いられる、聖書を読み解く上で鍵となる言葉。本来の意味は重層的で、神、人、国、民族の間にある平和、個人的平安、肉体的健康、商業的繁栄、宗教的救い…30以上の日本語に訳し分けられる。それはただ争いのない状態を表わすのではなく、よいもので満たされている状態(しかもその充足へと移される動的な状態)を意味する。
 あらゆる悪と暴力が満たされない人の心から生じるとすれば、それを一時、外面的に、時に力をねじ伏せる力によって押さえつけたところで根本的解決にはならないのだろう。
 詩人はいう、「主を畏れる人には何も欠けることがない」と。主を畏れる命にまことの充足がある。この充足、シャーロームを知ることこそ平和の始め。

松戸教会 村上恵理也


2017年 6月

文語で味わうみことば 15


 
 これはイスラエルの王ダビデによる悔い改めの祈りの一節。ダビデは王座の力をもって部下ウリヤを戦場の前線に送り、命を散らせ、その妻バト・シェバを自分のものとした、あの過ちの取り返しのつかなさを、預言者に指摘されたとき、ダビデは祈る。
  あゝ神よわがために淸心をつくり(創造し)
  わが衷になほき靈をあらたにおこしたまへ
 ここに「つくる」(創造する)と訳出されるのはバーラーという語。これは特殊な言葉で、使われるのは、主語が神であるときのみ。
 ダビデは知っていた。否、知らされた。罪に悩む自分を救うのは自分ではないことを。人間の自浄能力のおぼつかなさを。それゆえ祈り求めた。神のみにより創造される清い心を、新しく確かな霊を。
 新しい期節、神からの霊を祈り求める。

松戸教会 村上恵理也


2017年 5月

文語で味わうみことば 14


 神について、救いについて、聖霊について聖書を読んでもわからない、と聞く。そのような人に、縷々自らの聖書理解を説明したくなる。そしてときにそれを実践するが、消化不良を示す相手の顔つきは目に余るものとなる。神について説明することの限界を思う瞬間である。
 神の言葉への全き信頼をうたいあげる、詩人の詩に接し、はたと気づくのは、彼がこれを数値や記号により伝達しうる形式知としてではなく、経験知として語ること。
  これ(神の法)を蜜にくらぶるも
  蜂のすの滴瀝にくらぶるも いやまさりて甘し
 甘さは形式知としての言語により説明することができない。それは砂糖を口にする経験をした者のみが知る感覚。詩人は神の言葉を教えようとしない。蜂の巣の滴りよりも甘い、それを食するようにと促す。

松戸教会 村上恵理也


2017年 4月

文語で味わうみことば 13


 悔い改めの詩編と数え上げられる、七つの詩編の第三番目。ここにダビデは自らの罪に涙して、神に赦しを乞う。
 表題に目を向ければ、ダビデの告白するは「バト・シェバと通じた」あの日の過ち(サムエル記下十一章以下)であることがわかる。とするならば、今ダビデが詫びるべきは彼女の夫ウリヤに対してではないか。ところが、ダビデは神に向かい頭を垂れていう、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し」たと。
 ダビデは筋違いなことをしているのか。否である。ここに彼はまことの悔い改めをなす。悔い改め。それは人に対して詫び、償いを果たすにとどまらない。その罪を神の前で捉えなおし、悔い、神に立ち帰ることである。
 人はしばしば上手に詫び、反省する。しかし、まことの悔い改めに至る者は少ない。受難節の日々も残りわずか。

松戸教会 村上恵理也


2017年 3月

文語で味わうみことば 12


 息子アブサロムの差し向ける追手から逃れるダビデには眠れぬ夜があった。悔しさ、悲しさ、不安、万感うずまく朝の遠い夜。ダビデはほかでもない主に思いを馳せた。
 名著『眠られぬ夜のために』は不眠の処方箋と思いきや、眠れぬ夜にこそ我が身を省みるようにと促す。その夜を有意義足らしめよと。しかし、それはただ内省することではなく、自分の平安の源である主と対話することだという。カール・ヒルティはいう。
 従って、第一に、自分自身を相手に語ってはならない。それはたいてい、不安を増すだけだからである。できるならば、つねにゆるがぬ平安を与えて下さる神と語るか、それとも、もしそういう人がいるならば、あなたを愛してくれる人たちと語りなさい。
 眠られぬ夜に、神と相対する者とされたい

松戸教会 村上恵理也


2017年 2月

文語で味わうみことば 11


 第十戒は他人の所有物を自分のものとする一切の行為を禁じているという。妻や奴隷をここに数えることは、今の感覚では受け入れがたいが、いわゆる人権意識のない時代、この戒めには革新的な響きがあった。
 不合法に、あるいは合法を装い、他人のものを自分のものとしようとする人の貪欲には際限がない。アメリカ先住民族の首長の一人、シアトルのものとされる言葉は重い。
 ワシントンの大統領は我々の土地を買いたいと言う。しかし、いかに人は空を、土地を、買ったり、売ったりできるのか。その発想は我々にとって奇異である。…我々にとって大地は隅々まで神聖なものだ(一八五四年:拙訳)。
 素朴にも人の所有物とは何かを考えさせられる。所有物、それは神がひととき、人に託したもの、賜物である。

松戸教会 村上恵理也


2017年 1月

文語で味わうみことば 10


 嘘をついてはいけません、とは幼き日に学ぶ人の道。
 一方、「虚妄の證據」とは日常で発する嘘ではなく、本来、法廷の証言における偽り、いわゆる偽証を意味する。遺伝因子鑑定の採用される現代とは異なり、生身の証人のひと言が裁判を決定づける時代、証人の証言は被告の尊厳を守ることもあれば、不当に貶めることもあった。この戒めは、人の尊厳と名誉を不当に貶めることを禁ずる。
 サマリアの王アハブは、ぶどう畑を明け渡さないナボトに憤ると、二人のならず者を差し向け、民の面前でこう証言させた。「ナボトが神と王とを呪った」。二人の偽証人のゆえにナボトは石で打ち殺される。(列王記上二十一章)
 自分の利益のためには他人の富も尊厳も蔑ろにすることを厭わない衝動への誘惑は、今、市場原理、◯◯第一主義等、名を変え、表層を変えてすぐそこにまで迫っている。

松戸教会 村上恵理也


2016年12月

文語で味わうみことば 9

msg201612
 第八戒が「盗むなかれ」と命じるとき、それは誘拐、拉致、監禁など、人の自由と尊厳を毀損する行為を禁じているという。
 皇帝アウグストゥスのひと声に住み慣れた地を離れるヨセフとマリア。皇帝の目的、住民登録は力を数で測ろうとする権力者の常套手段。その力の前に二人は風に舞う落ち葉のよう。初めての子を産む地を決める自由などない。
 ところが聖書は語る。力ある者の思惑により追いやられたどり着いたベツレヘムこそ神の約束の地であることを。「エフラタのベツレヘムよ…お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。」(ミカ書五章)
 神の計画は、人の自由と尊厳を盗み奪い、力を誇示しようする者の思惑をはるかに超えている。神の言葉の成就を信じる者が静かに立ち上がるとき、クリスマス。

松戸教会 村上恵理也


2016年11月

文語で味わうみことば 8

msg201611
 姦淫とは男女の不正な交わりをいう。ただ、何をもって不正というかは古今東西理解が異なる。旧約時代、姦淫とは男性が既婚女性と関係を持ち、他の男性の結婚を破壊することをいった。ということは、他人の結婚を破壊しない限りにおいて許容される範囲があったということ。これに従えば、ダビデがウリヤの妻バト・シェバを奪ったことは姦淫となるが、アブラハムが妻サラではない女奴隷ハガルとの間に子を得たことは姦淫とはならない。
 何をもって不正というのか。多様な価値観が錯綜する現代、多様な見解があるようである。しかし、何が不正で、何が不正ではないのかという、言い逃れの道を探るような議論のむなしさを思う。この戒めは、理屈をこね回して自分のしていることを正当化しようとする者をあぶり出す。
 汝姦淫するなかれ。至極平明な戒めである。

松戸教会 村上恵理也


2016年10月

文語で味わうみことば 7

msg201610
 目には目を、歯には歯を。古代世界に見られる同害報復の原則には、憎しみの連鎖を断ち切る知恵がある。その始めはどんなに小さな敵対行為からでさえ、過剰な報復が新しい報復を呼べば、やがて破滅行為に至る。だから目を打たれたら、相手の目を打つにとどめよ、との原則。
 悲しいことに、人の世の現実はこの知恵が奏功しない。その上「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」との言葉を前にすれば、人はもはや絶望するほかない。人に憎しみの連鎖を断ち切ることはできない。ただひとり、あの方を除いて。
 唾を吐きかけられ、葦の棒で頭をたたかれ、侮辱の限りを受けた主イエス。正当な報復権をもつ方が沈黙のうちに十字架へ。十字架の主イエス・キリストこそ殺すなかれ、報復の連鎖を断ち切られる方。

松戸教会 村上恵理也


2016年9月

文語で味わうみことば 6

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「父母を敬へ」と命ぜられるとき、人は両親に神に準じる権威を見ることが求められている。「敬う」には、大切にするという意味を超えて、権威への礼節、謙譲、畏怖が伴う。「敬う」には、神を礼拝するという意味までも含まれる。「わたしをおいてほかに神があってはならない」という神が、両親を敬えと命じられることの重さ。
だれひとり両親を経ずに生まれ出ることはない。すべて人の子は両親の前に保つべき佇まいを問われている。
他方、ここでは子に敬われるべき親のあり様もまた問われている。親は子どもを生み、身体的、情緒的、社会的育みをもって、親の責任を果たしているとはいえない。
神の戒めを正しく教え、信仰によって養育する時、
地上における神の代行者としての親の責任を果たしたと言えるのである(ブレヴァード・S・チャイルズ)。

松戸教会 村上恵理也


2016年8月

文語で味わうみことば 5

msg201608
聖日死守はいつしか聖日厳守となり、今や聖日尊守となっているとの分析は肌感覚と合致する。だからとて、昔の人に比べて今の我々は…と安直な自己反省をしても意味はない。なぜなら、信仰者その人がその必要に自発的に目覚めることなくして守られる安息日は虚しいから。それはだれかの大号令によって守られるべきものではない。
離散の民(ディアスポラ)として世界に散ったユダヤの民は異国・異教の地に滞在しようと、自らのアイデンティテイーを失うことはなかった。それは、自分は何者なのか、神の前で確認し続けたゆえのことである。わたしは何者なのか。それはわたしを造られた神のみ前でのみ明らかにされる。ユダヤの民の間には次のような格言があるという。
ユダヤ人が安息日を守ったのではない。
安息日がユダヤ人を守ったのである。

松戸教会 村上恵理也


2016年7月

文語で味わうみことば 4

msg201607
「ヱホバの名を妄りに口にあぐる者」とは、一般に、神を冒涜する者、主の名をもって偽りの誓いをする者、その名をもってまじないや魔術の類にうつつを抜かす者らであるに違いない。しかし、第三戒が念頭に置くのは信仰者、すなわち、日ごろ主の名を親しく呼ぶ者である。
神殿を商売の家にする者、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする者、賽銭箱の前で有り余る中から胸を張って献げる者。彼らは皆、主の名をもってそれをした(つもりでいる)。ところが、主イエスは彼らの敬虔そうな面持ちの奥深くに潜む心根、自分のために神の名を利用するあざとさを見抜かれる。
問われるは、その名にふさわしく生きているか、つまり、神のこころを生きているかである。主は自分のために主の名を持ち出す者を「罰せではおかざるべし。」

松戸教会 村上恵理也


2016年6月

文語で味わうみことば 3

msg201606
古今東西、木や石、土や金属、素材は違えど、人は神仏を形ある像とし、崇拝の対象とする。その動機は出エジプトの道半ば、金の子牛をこしらえた人々に見られる。
旅路を導く人モーセが独り山に登り、四十日、四十夜そこにこもるや、民の不安は膨れ上がる。見捨てられたのか、だまされたのか。モーセの姿を見ることのできない民は、身に着けた装飾品を持ち寄り子牛の像とした。
今、教会に崇拝の対象としての像はない。十字架もステンドグラスも崇拝の対象ではない。それでも、今なお「目に見える確かそうなもの」に寄りかかりたい願望は、信仰者の中にさえ存在する。学歴、職歴、家柄、組織…。
肉の目に捉えられなくとも、昔も今も、「わたしはあなたと共にいる」と語り続けるひとりの神を、信仰のまなざしをもって捉える幸いに留まりたい。

松戸教会 村上恵理也


2016年5月

文語で味わうみことば 2

msg201605
十戒の第一戒は、人を神の前に立たせる。「我面の前に」とは、原語アル(前に)・パーナイ(わたしの顔)の最も素朴な訳でありながら、神の前に立つ厳粛さを十全に表現している。すなわち、神の顔の前に「わたし」が立ち、その間に何ものも挟まない。それが神の前に立つことであり、神のみを神とすることである。神は「わたし」と一対一で向き合うことを望まれる。
信仰者はいうかもしれない、主のほかに神はない、と。しかし、〈あなたの心がしがみつくものは何であったとしても、それがまさにあなたの神です〉(M・ルター)といわれるならば、どうであろうか。
仕事、学業、健康、富、名声…。いずれも大切であるが、これにしがみつくことなく向き合うのは思いのほか難しい。まっすぐに神の顔の前に立っているだろうか。

松戸教会 村上恵理也


2016年4月

文語で味わうみことば 1

msg201604
昔に比べて聖書の言葉を暗唱することが少なくなった、といわれる。聖書のどこに何が書いてあるか、瞬時に検索し得る機械仕掛けの玉手箱のせいなのか。はたまた、溢れる流れる情報としてのコトバのせいなのか。
その理由の詮索は虚しい。少ないと嘆く今こそ、分析や理由づけなしに、みことばの復権のために立ち上がるときである。都度理由を問わず三度の食事をいただくように、いのちを生かすみことばを日ごとに味わい、食したい。
聖書としての品格を保ちつつ、簡潔にして豊かな韻律を有する文語訳聖書は、広く日本文学、思想ほか、諸分野に影響を与えた。この訳文に秘められた不思議な力に導かれつつ、聖書を味読したい。
ここに始める「文語で味わうみことば」の副題を「声に出して読みたいみことば」としよう。

松戸教会 村上恵理也


2016年3月

主に従う者
十字架を迂回せず

どんなにきらびやかな美術工芸品として目にしようとも
十字架が元来 処刑の道具であることを忘れたくない
“主よ、とんでもないことです”
一番弟子が打ち消したのも無理はない
十字架に死す者には敗北の二文字が刻み込まれる

ことあるごと 主は弟子たちに
自らの道が十字架に至ることを語られた
やがて自らの手にする栄光が
十字架を経て与えられる栄光だと語られ続けた

ところが弟子たちは 十字架抜きの復活を
敗北のない栄光を求めた
ひたすら力強い主の弟子であることに誇りを見ようとした

キリスト者であることは、・・・改宗者とか聖徒とかに
自分を仕立て上げたりすることではない
キリスト者であるとは、・・・
この世の生活の中で神の苦しみに与ること(である)

ボンヘッファー/1944年7月18日の手紙(括弧内加筆)

十字架の道を選び取られた主に従う者の求めるべきは
この世の強さ華やかさではなく 信仰者としての立派さでもない
それは十字架の主に従う者として
応分の苦しみにしっかりとどまることである
避けてとおりたいその道を あえて選びとる
そこに神の備え給う新しい生き方のあることを信じて

主の復活を祝うために なお進むべき道がある

松戸教会 村上恵理也


2016年2月

十字架の執り成し
主が終わりに立たれる

旧約では地獄にあたる言葉をシェオールという
それはいわゆる地獄絵図に描かれるような世界ではなく
神から離れた状態 神からの光が差して来ない状態をいう
それはどこか遠く離れた世界ではない

神から離れたところ 自分しかいないところ
自分を世界の中心に置き 自分の都合で他者を判断し
互いに争い 傷つけ合うところ そこにシェオールがある


お父さんはお母さんに怒鳴りました こんなことわからんのか
お母さんは兄さんを叱りました どうしてわからないの
お兄さんは妹につっかゝりました お前はバカだな
妹は犬の頭をなでゝ よしよしといゝました
犬の名前はジョンといゝます

詩「わからない」杉山平一

祭司長 群衆 ポンテオ・ピラト…
自らの立場を保持しようする者らの暗い連鎖の末の十字架
神を締め出すことに成功したとうそぶく者らの十字架
そこはまさに人の織り成すシェオール
その深い闇の中 主の執り成しがある

父よ、彼らをお赦しください
自分が何をしているのか知らないのです
(ルカ福音書23章34節)

人間の自己本位さの最果てで 人の闇をひとり背負い
神ともにいます新しい世界を創造するために祈る主
神の独り子は世のしんがりとして シェオールを閉じられる

松戸教会 村上恵理也


2016年1月

遅々として紡ぐ言葉
縦書きで生きる

幼き日 書初めは 書の心得ない者に暗然たる思いを抱かせた
これに文才の欠如が加わって
原稿用紙の前に座る作文には いよいよ苦しめられた
上から下へ 右から左へ
重く運ばれる手が鉛筆に黒く汚れるのを見ては苛立つ
それは終わりのない時間に思われた

今 パソコンの前でひととおりのことをする
左から右へ 上から下へ
文字のゆがみにも 手の汚れにも気をもむことはない
しかし 滑らかに速やかに文字を打ち込んでは消し去る
その作業を繰り返すとき 手を汚して書いた言葉を
ここまで無駄にすることはなかったと思い至る
それは拙く 遅々として紡ぐ言葉ではあったが
その言葉には何かが伴っていた

だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、
また怒るのに遅いようにしなさい。
人の怒りは神の義を実現しないからです。

(ヤコブの手紙1章19-20節)

何事も効率よくこなすことの求められる日々には
瞬発力がものをいう
けれども 遅いことが尊ばれる信仰の世界がある

縦書きで生きたい
手を汚しても 時間を要しても 心の伴う言葉を携え生きたい
書初めに臨む我が子を見ながら 年頭に思う

松戸教会 村上恵理也