ショートメッセージ2010

2010年12月

「夕暮れのキリスト」と共に

ルオーの中期以降の風景画の多くは夕暮れの風景で、人間の上にそそぐ夕陽の荘厳な光は、神の恩寵の光だと言われる。遠藤周作の作品の中には、夕暮れの風景がでてくる。息子遠藤龍之介に次のように語ったことがある。
「父と話している時、ふと洩らした象徴的な言葉が記憶に残ったことがあります。ある時、二人で居間に座って窓を眺めていると、『夕焼けを若い時に見るのと今見るのとでは違うな。昔は単に日が沈むとしか思わなかったが、六十を過ぎた今見ると、夕焼けの中から自分の懐かしい人や肉親からの本当に微か、微かな声が聞こえてくるんだ。お前もあと三十年もすると、そう思う日がくる』と言ったことがありました」と。
遠藤周作の夕暮れの想いを読んでいて、私は少し違うなと思った。10代の後半から20代にかけて、私にとって「夕暮れ」は今日も生きられた。また明日が来てくれるかもしれないと思ってきた。福音書を読んでいても、朝日の中のキリストはなかなか思いうかばないが、夕暮れのキリストに深い共感をもって読むことができる。すぐに心に浮かんでくるのは、イエスの復活のあとで、エマオへの道を弟子たちと共に歩くキリストには、いつも夕暮れの時に、「主に共に歩んでください」という祈りがでてくる。しかし、主イエスが、ベツレヘムの馬小屋で生まれた時も、夕暮れであったように思える。神のみ子の誕生は、旅の途中で泊るところのない淋しさの中から、ようやく見つけられた馬小屋に、夕暮れに一夜の憩いを求めたところでクリスマスの出来事が起った。夕暮れには、すべて終わり夜がくるという絶望と、必ず明日がくるという希望の光がある。
私にとって福音書の主イエスは、夕暮れに誕生し、夕暮れに十字架の死をとげられた。そして復活のキリストも、夕暮れに弟子たちに語られたお方である。1か月近い入院生活で、ほとんど身体を動かすことができない注射の管が何本も入っている中で、幸いに毎日夕暮れの見える病室にいた。病院の夕暮れは寂しいという人もいるが、私にとっては毎日夕暮れのキリストとの出合いであった。クリスマス・イブは真夜中に守られるといわれるが、私にとっては、イブも夕暮れがいいと思っている。クリスマスを共に祝うこの12月に、あなたも、夕暮れのキリストに出会ってみませんか。

松戸教会 牧師 石井錦一


2010年11月

見えぬけれどあるんだよ

『星とたんぽぽ』

青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

これは、金子みすゞの童謡の一節です。この節につづけて、みすゞは、たんぽぽの茎ははがれていても、その見えない根は、瓦のすき間に生きていて、春が来たら、たんぽぽの花を咲かせるのだ、と謳っています。
金子みすゞは、70年以上前に、26歳の若さで、ひとりの娘を残して自死した童謡詩人で、死後50年以上をへて、世に認められ、人の心を浄化するふしぎな力をもった童謡詩の数々が、多くの人に読まれている。
「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」と、昼間の星について断言し、瓦のすき間のたんぽぽの根について語るこの童謡は、見えるものにばかり心を奪われている私たち一人ひとりに忘れものを思い出させてくれる。
わたしは、保育園や子どもの教会でも、神さま、イエスさまについてお話をすると、4~5歳児、小学生になると、「神さまがいるのなら、どうして見えないの、どうして一度もテレビに出ないの」と質問する子がいる。このような質問は、素朴な問いであるが、おとなは、どう返事をしたらよいかわからないという。「見えないもので、あるんだよ」といっても、「見えないものはないんだ」という。
わたしは、いつも「目に見えなくても、あるものはたくさんあるよ」と答える。母親や友だちに好きな人がいるとき、「愛している」「好きだ」という。「愛、好きは見える?」と聞くと、「うん、見えないね」と答えてくる。「星の王子さま」という本の中で、王子と仲良しになったキツネが言っている。「大切なものは目に見えない。肝心なことは、心の目で見ないと見えないんだよ」。
今の時代は、「心で見るもの」を忘れた時代です。教会の礼拝に出席しても、神は見えません。しかし、讃美、祈り、聖書のことばの説教を、心をこめて聞いていると、見えない神の愛と言葉が、私たちの心にみえてきます。いや見えるだけでなく、信じて生きること、愛することが、礼拝という場で具体的に見えてきて、信じることが、わたしの生活の中に生きて見えてきます。

松戸教会 牧師 石井錦一


2010年10月

「大義」「正義」を叫ぶ声を真理をもって聞き直す

城山三郎という作家は、いつまでも忘れられない作家のひとりだ。戦中、海軍特別幹部練習生に志願入隊、敗戦後、現一橋大学を卒業している。「総会屋錦城」で直木賞、1975年に、A級戦犯として処刑された唯一の文官広田弘毅を描いた「落日燃ゆ」が、毎日出版文化賞を得た。経済小説の分野を確立し、組織と人間を描いて多くの人に読まれた。2007年に享年79で逝去した。城山三郎の作品を読むにつけ、今、独裁国家のニュースが流れると、日本もかって戦前、戦中にうけた教育がそうだったと私の心はキリキリと痛む。
昭和11年に部下の青年特検指導ために杉本五郎中佐の書いた本「大義」は、私の小学生の頃、ベストセラーだったらしい。城山三郎は、この「大義」を暗記できる位、熟読して、志願入隊して、特攻を指揮するのは、この「大義」をまっとうしたい考えからだったという。
この「大義」の内容はどのようなものであったか。
「天皇は天照大御神と同一身にましまし、宇宙最高の唯一神、宇宙統治の最高神」
「天皇は国家のためのものに非ず。国家は天皇のためにあり」
「天皇精神発動に依る戦争は領土拡張に非ず、人類救済なり。皇威を冒涜するもの内外共に敵賊なり、共に滅すべし」
宇宙の最高神である天皇の発動する戦争は人類救済のためであり、兵士たちは「私」を滅してこれにあたれ、と書いた彼の中に、天皇を「現人神」としてあがめる思想を、「大義」に生きる心とした。この「大義」の最後に「戦争」の章では、中国戦線での日本軍の虐殺行為や略奪行為をはじめとする乱れぶりを見て、杉本中佐は、これは人類救済のための戦争ではない。領土拡大のための「帝国主義戦闘」であると、喝破(邪説を排し真理を説き明かすこと)して、共産主義や社会主義、人民戦線の方が、皇国の精神を生かすものではないかと、彼らを弾圧することへの疑問さえ書いている。若者を煽動するために書いたのではなく、軍部の指導者に向かって、天皇による大義の戦争批判になった。その結果は、杉本中佐は激戦の中国戦線に送られ、戦死をする。
おくれた皇国少年であった私は、ずっと後に城山三郎によって教えられる。「大義」とか「正義」によって、すべてが失われることを、「政治」「教育」残念ながら「宗教」においてさえ、歴史をしっかりと学び直して、真理の方向に向かって生きることを、捉え直す必要を、痛切に今思っている。

松戸教会 牧師 石井錦一


2010年09月

二十六聖人の殉教を偲んで

京都の四条通りと堀川通りが交差するところに「日本二十六聖人殉難地」という場所がある。この地がキリシタンたちによる宣教運動の中心地とされている。しかし、秀吉の禁止令によって捕えられ、二十六人の信者たちは、そのまま九州の長崎まで引っ立てられていった。二十六聖人殉教の丘が、長崎駅近くにある。等身大に近い二十六人の銅像が横一列に並び、長方形につくられた大きな石の壁のなかにきれいに埋め込まれている。
近づいて仰ぐように見上げると、その多くは日本人の男女の信徒たちであったが、なかにポルトガル宣教師の顔も混じり、さらに背の低い三人の子どもたちもいる。わたしは、何度か訪ねたことがある。そこでしばらく目を離さずにはおられないところがある。それはかれらの足元だ。みんな、両足のつま先が下に垂れている。宙ぶらりんの姿になっている。十字架に吊るされて処刑された当時の生々しい姿を、その垂れ下ったままの両足が示している。足袋をはいているのや、はだしのままのがあった。
伝承によると、かれらは京都から歩きづめに歩かされ、少し舟にのせられて、長崎の港につくと、再びそこから刑場まで歩かされた。京都からほとんど歩かされ、両足が血だらけのありさまで長崎にたどり着いた。その行程にはいくつかの物語も伝えられている。男、女、少年まで、最後まで、キリストを信じて、惨酷な苦難に耐えて、殉教した。
聖人像から少し離れた公園の隅に碑が建っている。二人の俳人の作品が刻まれている。ひとつは、「天国の夕焼を見ずや地は枯れても」水原秋桜子の句、長崎湾のはるか西の海に沈む夕日を見ながら処刑されていった殉教者たちの姿をあざやかにみせてくれる。次の句は、「たびの足はだしの足の垂れて冷ゆる」下村ひろしの作品、殉教者たちのぼろぼろになった足袋の足、血だらけになったはだしの足に、目を凝らしている。
いのちをかけて信じる、何があっても、信仰から逃げださない。わかっても、わからなくても、ひたすらに信じていく志しが今は失われてきている。今のキリスト者に、「あなたの信仰は何か」と問われている。二十六聖人像の足元に、マルコ福音書の一節が文語訳で記されている。
「人もし我に従わんと欲すれば、己を捨て十字架をとりて、我に従うべし」と。
何があっても、主のみ足の跡をたどっていきたい。

松戸教会 牧師 石井錦一


2010年08月

わたしの「八月十五日」

8月の「日本で一番長い夏の日」を経験した人は少なくなった。1945年(昭和20年)8月15日は、敗戦記念日だ。わたしは、この日を「終戦記念日」と自ら語ることはない。新聞記事を読んで心うたれた。

にほんのひのまる
なだてあがい
かえらぬ
おらがむすこの
ちであがい

山形県蔵王南麓の農民詩人木村迪夫の祖母つゑが、突然こんな歌を歌い始めたのは1946年5月末のことだったという。

中国戦線に出征していた長男が1ヵ月前に現地で病死していたことが分かり、三日三晩泣き明かした後、ご詠歌の節回しで、心の奥底からわき出る言葉を即興的に歌い始めたのだ。それより前、次男が太平洋の孤島で戦死したことが伝えられた時、つゑは天皇陛下のため名誉の戦死をしたのだと赤飯を炊き、祝っている。長男の死で何かが切れた。「天子さまのいたずらじやあ」、「むごいあそびじやあ」と神棚にも手を合せなくなった。

ふたりのこどもをくににあげ、
のこりしかぞくはなきぐらし、
よそのわかしゅうみるにつけ、
うづのわかしゅういまごろは、
さいのかわらでこいしつみ

「わかしゅう」は「若衆」、「うづ」は「家」のこと。つゑが蚕の世話をしながら、毎日繰り返す呪詛の歌声は、近所の人は、気味悪がり、木村の家を避けて通った。それが10年続いた。木村が1978年に詩集「わが八月十五日」を出した時、「祖母のうた」の章にこの歌が収録されている。字の書けないつゑが即興的に作り、歌っていた歌は10編、死期が迫った枕元で、木村が必死につゑの記憶を手繰り寄せさせ、書き取ったものだ。

この詩集の写真を担当した写真家の内藤正敏は、「ひのまる」の歌に衝撃を受けた。「インテリは反戦だとか、怨霊だとか頭で考えるから、こんな詩は生まれてこない。理屈や論理を超え、子を産む女が体で歌ったような怒り、毒がある。東北のばばが、ものの見事に国家の質を突いている」と。

息子たちを戦争で殺された母たちの悲しみの衝撃を、この「ひのまる」に受けた。わたしの10代から20代のときに受けた敗戦の心のうずきは、今なお「ひのまる」をバンザイといって振ることができない。「君が代」も声を出して歌えない。わたしの心の奥にあるものを、東北の婆が歌ってくれた。三日三晩泣き続けた戦争の残酷さを、いつまでも忘れてはいけない。

松戸教会 牧師 石井錦一


2010年07月

放浪芸から学ぶもの学びたいもの

わたしは「小沢昭一」という人に深い関心をもっている。ラジオでふと聞いた彼の話ぶり(あるいはおしゃべり)にとても心ひかれる。
ラジオで紹介してくれたのを憶えていて、2年位前に、東本願寺で開かれた「節談説教会」に、数人の牧師たちをむりやりさそって参加したことがある。浄土宗では、徳川時代から、毎月巡回説教師として「節談説教」をあちこちの寺々を回っていたことは知っていたが、どんな説教をするのか、よくわからなかった。築地の東本願寺の中にはじめて入った。10名をこえる僧侶が、次々と「節談説教」を語ってくれた。食事の時間には、飛入りで、10歳くらいの少年が「説教」をした。
小沢昭一によると、放浪芸という名でひとまとめにしたものは、昔は門付けとか流し、ドサ回り、旅芸人、大道芸人、香具師などと呼ばれていた。それらの中でも、一軒一軒の家を訪ねて万歳や獅子舞などをやる門付け芸や、祭りのときに小屋掛けでやるドサ回りの芝居や見世物、道端で猿回しなどをやる大道芸などは、たいていの人は放浪芸とわかるが、お寺の坊さんたちの節談説教や、盲僧琵琶まで放浪芸だといわれると、とまどう人もいるかも知れない。しかし、本来仏教の布教活動や信仰行為であっても、まさしく芸であり、しかも彼らは檀家やお寺などをまわり歩く人であることに気が付き、やがて日本の芸能史や音楽史の一つの大きな源泉になっていたことを改めて教えられた。
香具師の道端にものを並べ、うまいことを言っていい加減なものを高く売りつけたりするような、その舌先三寸も芸と見抜き、この放浪芸の中に入れたのは、小沢昭一の炯眼であったと思う。
小沢昭一の話術、放浪芸の中には、キリスト教の伝道の志しに教えられるところがあると思うからだ。主イエスは、時に会堂で説教されたが、多くは、道端か野原であった。さらには、数人、十数人が取り囲んで、主のお話を聞きたいと集まってきた人たちに語られたものだ。教会の歴史の中で、教会堂建設がなされて、礼拝の様式も整えられてきた。一方で、いつでも、どんなとこでも、道行く人を止めてでも、聞いてもらえる説教がなくなった。上品で、形式的に整った礼拝とともに、放浪芸のような伝道と説教も必要なのではないか。いや、求められている。しかし、今のわたしにとてもできないかなと悩む。

松戸教会 牧師 石井錦一


2010年06月

与えられたいのちを生きる

ある雑誌を読んでいたら、中学生と大学生の孫と、新熟語を作る文字遊びのことが書いてあった。夕刊紙にガンの特集記事が一面にあった。その記事の中央に大きなポイントの活字で、「・・・余命を考える」とあった。「この余命というのは、一生の終わりに近づいている命ってことだろう」上の孫がいった。すると下の孫が顔をしかめて、吐いて棄てるようにいった。「いい熟語じゃないよな。なに陰気な漢字だよな」、「そうだよな。病院にガンで入院している人がこの見出しを見ればいい気はしないよな。ヨメイのヨを新しく考えればいいのになあ。ヨというのはあらか(あらか考)じめの“予”とすることも考えられるが、それもよくないな」、「うん、それも陰気な感じになってしまうから、預金の“よ(よの)”というのはどうかな」、「それもおかしいなあ。じいちゃん、もっと明るい“ヨ”というのはなにかある?」、「うーん・・・。ホマレという字があるなあ。名誉の“よ(よる)”だ」、「それはかえっておかしいよ。逆効果になってしまう。ガンがほま(ほま、)れだなんていうと、相手の患者さんをからかっているようで失礼だよ。しかし、あま(あまん)った命でヨメイというのはどう考えても暗いよな」。上の孫がハット名案をうかんだ。「なにか思いついたのか」、「うん。あた(あたが)えるの“よ(よた)”だよ。与えられたいのち(いのち与)をよめい(よめい与)というわけだよ」、「なるほど、そいつはいい。誰しも生命は与えられたものだからな」、「うん。与命ならガンの人も勇気がわ(わな)くだろうな」。
この新熟語は、よい言葉だと思った。「与えられた生命」を「与命」と呼んだら、自分のいのちは、与えられたもの、さずけられたものと考えたら、ガンによるヨメイ(ヨメイよ)が、あと・・何日、何か月、何年といわれても、そこまでのいのちとしか思えない。与えられたいのちなら、あと1日でも、そのいのちをくださったお方に感謝して、一日のいのちを大切に、充実して生きていけるのではないか。
「与えられた生命」は、わたしたちは、この世に生まれてきたとき、えらんで生まれたのではない。どんなに長く生きたいと思っても、与えてくださった方によって、そのおわりの日が定められている。いのちをさずけてくれた神を信じることができたら、いのちを与えられているわたしとあなたの生き方は、変わるのではないか。生れる日も、死ぬ日も、神がわたしのために定めていてくださると信じたら、「きょう一日、大切な一日として生きる」生活を感謝して、あした(あした生)で終わって感謝して、わたしの一生をおわることができる。

松戸教会 牧師 石井錦一


2010年05月

洗礼から聖餐へ

教会の聖餐式は、ユダヤ教の過越の祭の変化し、発展させたものと言われている。ユダヤ民族にとって、「出エジプト」は、モーセによっての、奴隷からの解放であった。今のユダヤ教では、まず「ぶどうの実を造りたまいし、ヤーウエの神に感謝せよ」と言って、ぶどう酒を飲む。そして、祭りの中では、マッシアーという種なしのパンを祝福して割り、みんなで分け合って食べる。他に、聖書に書いてある苦菜の代わりの野菜だとか、卵などを特別のお皿に盛りつける。また、ハロセットといって果物と木の実をどろどろに混ぜたものを食べます。これは昔、ユダヤ人がエジプトの奴隷として、泥をこねて煉瓦作りの苦役をやっていたことをおぼえるためです。イスラエルで安息日に、ホテルの食事にもあった。ユダヤの家庭では、この過越の祭の最初に、親子の間で問答がある。子どもが親に問う「今日は普通の日と、どう違うのですか?」。「今日は私たちの先祖が昔、エジプトの奴隷であって苦しかった時に、神さまは、無事過ぎ越させてくださったことを記念して、それを忘れないための日だ」。このような問答を何度も何度も繰り返して、親子の間で伝わっているかどうかを確かめるのだ。年下の者の質問に対して、年長者は答えねばならない義務がある。このように記念して、民族の救いの記憶を徹底していく伝統があった。それが現在も続いている。
聖書には、「記念せよ」「忘れるな」という言葉が多くある。主イエスが、最後の晩餐の席で、十字架の上で引裂れた体と流された血を、パンとぶどう酒によって象徴されて、教会は聖餐式を行っている。洗礼(バプテスマ)を受けた人が、私たちの教会では、毎月第一主日の礼拝に行っている。「あなたは洗礼の恵みにあずかっている。イスラエル民族が過越の祭を、自分と民族の救いの日として記念しているように、洗礼を受けた者は、聖餐の恵みを通して、信仰を確認するのである」。生涯信仰を全うできるか、不安だという人がいる。まだ、信仰に確信がもてない。キリスト教の聖書もよく読んでいない。キリスト者として、正しく生きていくことができるか自信がないという声が聞こえてくる。自信も、弱さ、だめな人間だということがわかったら、どうしても、洗礼を受けて、聖餐の恵みにあずかることをしなければ、あなたの信仰は、確かなものとはならない。

松戸教会 牧師 石井錦一


2010年04月

夕暮れから夜明けまで-復活の主を信じて-

曽野綾子の「残照に立つ」は、美しい老後を迎えた女性がこれまでの人生を振り返り「いったい自分は生きてきたのだろうか」と自らに問いかける小説だ。話の筋は、四十九歳の家政婦の目を通して、一人の女の生き方を見つめ、思いをめぐらすという展開です。「私は梅田文子と申します・・・誰でも四十代になりますと、それまで見えなかったものも、気味が悪いほど見えて来ます」と家政婦は自己紹介する。この梅田文子の働きに行っている家庭の朧谷幹子夫人は「これほど裕福な人は世の中に指折り数えるほどしかあるまい」と思える恵まれた女性でした。夫は銀行の取締役で、息子は優秀で真面目で一流大学を出て、一流企業に勤めている。娘もまた、エリート商社マンに嫁ぎ、朧谷家の広大な敷地に家を建ててもらい、可愛い女の子にも恵まれている。

あるとき、高熱を出した幹子夫人が、「梅田さんにね、私、どうしても話しておきたいことがあるのよ。私は、本当に、まちがった一生を送ってしまったのよ」といって、主人の世話をし、子どもを育て、皆に幸せな人生だと言われてきたけれど、これは実に残酷な幸せであったと話す。そして、「私は生きたかったのよ、たった一回しか生まれて来ないのに、つまらなく暮らしたの」、「梅田さんは笑うでしょうけどね。私、恋がしたかった。放浪もしたかった。外国も見たかった。雪の中を凍えるような思いで歩きたかった。もっと夕陽も見たかった・・・」。しかもその翌日、夫人は主人に言います。「私は本当に皆によくしてもらって、いやな目に会わず、ほんとうに一生いい生活させて頂いたの・・・私より幸せな女はいないと梅田さんも言って下さるのよ」と、素直な声で語ったその日の午後、夫人は息を引き取る。梅田さんの感想は、あの奥さんの心の煮えたぎったいた無念の想い、生き尽くさなかった悲しみが伝えられても何の意味もない。私たちは正視するのが怖いため、死ぬまで自らの眼を閉じてしまう。夫人は、優しい虚偽が、あちこちに散らばって積もっていることに気づいた。人生の残照に立って、夫人は、はっきりと見たにちがいない。無残なことだったかも知れないと書いている。

人間の「生きがいとは何か」を考えさせる主の十字架と復活の月を迎えている。どんなに無残で残酷な人生を送ったとしても、主イエスを信じて歩む者には、まことの救いを与える復活の信仰がある。この信仰によって、今日を生きることができるのである。

松戸教会 牧師 石井錦一


2010年03月

おまえはなにして来たのだ…

   帰 郷

柱も庭も乾いている
今日も好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が
心細そうに揺れている
山では枯木も息を吐く
ああ今日は好い天気だ
路傍の草影が
あどけない愁みをする
これが故里だ
さわやかに風も吹いている
心置なく泣かれよと
年増婦の低い声もする
ああ おまえはなにをして来たのだと…
吹き来る風が私に言う

中原中也は、もう生誕百年をこえている。30歳で世を去っている。その詩は青春の苦悩と悲しみと祈りを全身でうたいあげた詩人である。「汚れっちまった悲しみに」の詩なども、多くの人に知られている。「汚れっちまった悲しみに 今日も小雪が降りかかる」ということばを、幼児たちに教えたら、すっとこころの中に入っていく様だった。どれだけわかっているかわからないが、人の心に深く入って、ゆさぶる力がある。中也の詩は、どちらかといえば強いというより弱く見えるけれども、その弱さを見つめてことばにしていく意味は、非常に強い。単純ににぶくなくなって強くなっていくというのとは逆の方向の生き方をした人だと評した人がいる。中也は、山口県、長州の人で、明治政府の中枢を担った人を数多く出している。中也には「故郷に錦を飾る」思いもあった。それが、「帰郷」の詩のおわりにあるように、故郷に帰ってみると、お前は何をしてきたのだ、何も残っていないんじゃないかと故郷の風が自分にいう。お前はいったい何を残したのだ、何の達成があったのだ、そんなものは何もないという寂しさが、詩の終わり二行になっている。
教会も、50歳をすぎた人々が多くなってきている。若い日、また壮年、老年になってキリストを信じた人がいる。みな「おまえはなにして来たのだ」と主イエスに問われている。でも「吹き来る風」を聖霊の風と信じたら、もう一度、若い詩人の思いをこえて新しい信仰の生き方をとらえていけると思う。いや、とらえて、主イエスのために、「なにをしていくか」とわが心に問いなおしたい。

松戸教会 牧師 石井錦一


2010年02月

平気でうそをつく人たち

精神科医でカウンセラーのM・スコット・ペックは「平気でうそをつく人たち」という本の中で、人間の悪と善について「善とは人を生かすこと、悪は人を殺すことである」という。あるとき、ペックの八歳の息子が「変だね、お父さん。悪(Evil)という字のつづりは、生きる(Live)って字のつづりと逆になってるんだね」と。確かにLiveを終わりから読めばEvilになる。この発見にヒントを得たのか「善とは人を生かすことであり、悪とは人を殺すことである」といって「悪は生に対置されるものである。生命の力を阻むものが悪である。簡単に言うなら、悪は殺すことと関係がある。---これは肉体的な殺しだけを言っているのではない。悪は精神を殺すものである」たとえば、人間の他者依存性を助長し、自分自身で考える能力を弱め、その人間の独自性および独創性を減じ、その人間を制御可能な状態に抑えこむことによって、他人を従順な自動機械に変えることも可能であり、それはその人の人間性を奪うこと、その人を精神的に殺すことになってしまうことになる。
悪について、ペックの考え方は、もう一つのことばによって示される。そのことばは「うそ」ということだ。「うそをつくということが、悪の根源であると同時に悪の発現だからである」といって、「悪の本質はうそにある。うそは人を傷つけ殺す」といえる。ペックの扱ったケースに、さまざまな「うそつき」の例がある。その中に、教養もあり社会的地位も高い夫婦の例がある。彼らは偽善と責任転嫁で自分の息子を絶望的な犯罪行為に走らせるが、決して自分たちの責任を取ろうとしない。彼らのうそは実に微妙で巧妙である。うまいうそとは高い知性なしに不可能である。うそは人間のすることだ。いったんうそをつくと、辻褄(つじつま)を合わせるために次々とうそをつく。いつ誰にうそをいったのか、正確に記憶し、矛盾のない受け答えをしなければ、うそはばれてしまう。うそをつき通すということは、まさに悪魔のような悪知恵を必要とする。
この本を読んで、自分も含めて、うそに生きる人たちは、常に正しいうそをいう人たちだよと思った。「平気でうそをつく人」に、どれだけ苦しめられ、悩まされたか知れない。同時に、今ヤコブの手紙を読んでいて、「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(ヤコブの手紙3章8節)のみことばに教えられている。

松戸教会 牧師 石井錦一


2010年01月

人間としての大事な心を求めて

「人間が人間であることのしるしは、その人格にあるはずですよ。手がなくても、目がなくても、口がきけなくても、人間としての大事な心さえ立派であれば、それが立派な人間といえるのじゃないですか。病気のことなど、決して卑下してはいけませんよ。」

上記の言葉は、三浦綾子の「塩狩峠」の中の一節だ。主人公の永野信夫の友人吉川修の妹ふじ子は美しい女性であったが、生まれつき足が不自由で、結核にも冒されていた。そんなふじ子に信夫は、「僕と一生をともにしてくれますか」と告白する。ふじ子は「永野さんは、健康な方と結婚なさってください。私を憐れんではいけませんわ」と涙ながらにいう。それに対して永野は、上記の「人間が人間であることのしるしは、---」と答える。五年後、病状が回復に向かっていたふじ子との結婚の結納を交わすために札幌に向う。汽車が塩狩峠にさしかかったころ、客車の連結器がはずれ脱線しそうになる。鉄道員であった信夫は、客車と線路の間に身を投じて、脱線をふせいで、帰らぬ人になった。

この小説は、実際におこったことを、小説化した物語である。多くの人に感動を与えた。塩狩峠には記念碑がある。
日本の社会でも、女性も男性も整形をして見た目をよくしたいというのが流行している。しかし、この小説の場合、ふじ子さんは体が不自由だが、その人間がどんな人間であるかを決めるのは、体ではなく人格である。もちろん、見た目を整えることは、他者に対する礼儀としてある程度必要ですが、人の評価の基準が人格でなく、だんだん薄っぺらなものになってしまった。人格は努力によってできる。勉強する、教養を積むことも必要だ。しかし、こころの修行、努力はもっと大切なことだということが、忘られている。宗教心とか信仰は、軽蔑(けいべつ)されている。確かに、宗教の中には、あやしげな金もうけ主義のようなものがある。人間の歴史の中で、さまざまな問題を克服して築きあげてきた宗教には、風格がある。そのような宗教を誠実に学ぶことが大切である。仏教者に多くの人格者がいる。イスラム教も、真実な規律が生きている。今、わたしたちは、キリスト教会に来ている。誠実に真実に自分の人格を築きあげてくれる信仰を教えてくれる。弱さや、見た目の貧しさで自分を失わない信仰を求めて、人格を築いていく生活をつづけたい。

松戸教会 牧師 石井錦一