ショートメッセージ2014

2014年12月

待つことを知る人
道程を喜び生きる

クリスマスへと向かう備えの日々
アドヴェントは待つことの教師である
年の瀬の慌ただしさにせわしく過ごし
気づいたらクリスマスということのないようにしたい

待つことには人気がない
パソコンの前 ひとつボタンを押せば
翌日にも欲しいものが手元に届く時代
待つ時間は短いほどよいという
待つ時間は無駄であるという

しかし待つことの本質を知る人は
待つこと自体に秘められた積極的な意味を知っている

キリスト降誕の前夜には 待つ人の姿があった
ザカリアにエリサベト シメオンにアンナ そしてマリア
これら待つ人の姿には退屈さも悲壮感も見られない
彼らは 神が約束の実現者であることを知るがゆえ
静かな喜びをもって待つのである

待つことの秘訣は、種はすでに蒔かれており、
そこに何ごとかが始まっていると信じることです。
ヘンリ・ナウエン

ただ漫然と待つことは退屈でしかない
しかし人の待っている間にも 神の約束の実現が近づいている
すなわち 今なお神がその成就のために働いている
この神のみ手のわざを思いめぐらす人にとって
待つことは心躍らせる道程となる

松戸教会 牧師 村上恵理也


2014年11月

時を見る教会のまなざし
それぞれの善し悪しがある

時が進めば物事は良くなるとする考え方 進歩主義がある
楽天的に過ぎる気がする
他方 時代が進むにつれ物事は悪くなるとする考え方がある
退歩主義とでもいおうか
人間社会の営みを見渡せば うなずきそうになるけれど
これではすべて人の営為は
岩壁の枝にしがみつく骨折りでしかない

 昔はよかったが今は悪い、と言ってはいけない。
反対に、今はよいが昔は悪かった、と言ってはいけない。
それぞれの時代には、それぞれの善し悪しがある。
すべての時代は創り主に直結している。
『心だけは永遠 ヘルマン・ホイヴェルス神父の言葉』
土居健郎 森田明

時を捉える教会のまなざしは
進歩か退歩 楽観か悲観 その二者択一ではない
師がその言葉をもって語るように
教会のまなざしは世のあらゆる評価から自由である

良いと評価される事柄の中に悪の潜んでいることを悟り
悪いといわれる事態にも善の芽を希望する

楽観主義にも 悲観主義にも肩入れしないこの態度こそ
それぞれの時代に神の介在があることを知るゆえに
平安を知るキリスト者の佇(たたず)まいだ

松戸教会 牧師 村上恵理也


2014年10月

聖書を読むということ
み言葉を我が内に

教会の採用している聖書『新共同訳』は1987年に発行された
聖書の翻訳にはいくつもの試みがあるが 『新共同訳』は
プロテスタント教会とローマ・カトリック教会が
協力して翻訳作業を行ったことに大きな意味があった
以来27年 今 新しい改訳作業が進められていると聞く
聖書の真理に迫る探求に終わりはない

『新共同訳』の誕生には20年にわたる準備を要した
1966年8月 各教派の聖書学者が一堂に会した
「極東聖書翻訳者セミナー」がその始めである

冒頭 講師として招かれた米国 構造言語学者は
セミナー参加者にレポートの提出を求めた
ローマの信徒への手紙1章1節から7節までを
原語(ギリシヤ語)から英訳せよ と
そして翌日 提出されたレポートを見て 講師は問うた
あなたがたが忠実に訳した言葉の一節
“信仰の従順”とはどういうことか 一人ひとり答えよ と

翻訳としては間違っていない
しかし聖書の言葉が本当にあなたの言葉になっているか
ならずしてみ言葉を伝えられようか という問いである

今 この問いは日本語で聖書を読む者にも向けられている
蒔かれた種としてのみ言葉は 我が内に根付いているだろうか
聖書を読む者として み言葉を語る者として 自問している

松戸教会 牧師 村上恵理也


2014年9月

主の手にひかれる旅
今までのように終わりにも

物心ついたときには 白髪をたくわえ 背中を丸めていた祖母
その小さな背中に
決して小さくない私は おぶわれ育まれた

祖母を天に送った秋を思い起こす
11年前 教会に仕える身として自分に言い聞かせていた
祖母の最期に立ち会うことはできないだろう と
ところが 容体の変化を知らせる電話が鳴ったのは平日の夕方
新幹線に飛び乗って 病室に駆けつけた その20分後に
祖母は静かに息を引き取った

あの20分間 お礼をいうにはあまりに短い時間
それでもあの20分間 祖母は待っていてくれたのだと思うし
天があのときを備えてくださったのだと信じている

敬愛する先達の最期に立ち会うことが許されてきた
だれひとりとして型どおりの死を死んだ方はない
ひとり ひとり その方に備えられたとしかいいようのない
終わりを迎えられる

いのちのはじめと同様 その終わりにも神の導きがある

人生の秋をおもえば 旅立ちを慮り(おもんぱか) 支度に急(せ)く日もあろう
けれども その旅立ちも 主の手にひかれる旅であるゆえに
ゆだねることもまた知る者でいたい

松戸教会 牧師 村上恵理也


2014年8月

誠実さの危うさ
偶像をつくらないために

礼拝ではマルコによる福音書を読んでいる
そこに登場する律法学者やファリサイ派の人々を見ていると
半ば同情にも似た感情が沸き起こる
主イエスから非難されるその人には
ある種の誠実さがあるように思えてならないのだ

彼らは神の民イスラエルとしての自覚と宗教倫理を有し
それに自らの行動を厳格に従わせる
定められたことへの忠実さ
この一点において 彼らの誠実さを否定することはできない

ところが主イエスは彼らを咎め 悲しまれた
それは彼らの誠実さが 神へと向かうものではなく
規定ありきの義務感へと向かうものであったためである
彼らは規定の存する理由や根拠を問うことがない

かつてユダヤ人を収容所に送り込んだ軍人の多くは
自分の行為を“職務を果たそうとしただけ”と説明したという
職責や義務が無批判に絶対化されるとき それは偶像となり
その支配下 人は神ならぬ神の盲従者となる

キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい
コロサイの信徒への手紙3章15節

平和を祈り求める2014年の8月 今改めて
何に対して誠実であるべきか こころの向きが問われている

松戸教会 牧師 村上恵理也


2014年7月

信仰と待つこと
約束を信じて

 聖霊降臨の前夜に流れた 弟子たちの不安に思いを馳せる
もはやその目に主の姿を見ることのできぬ その心細さ
主の喪失の影を延々と背負わされるかもしれぬ その疑念
そこには不安と疑いの交錯する霧深い夜がある

 けれども 弟子たちはその夜に耐えた
それはとりもなおさず
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、
父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1章4節)
との主の言葉が 弟子たちを待つ者としたゆえのことである

信仰には待つことが伴う
不安の日にも 疑いの夜にも
そこを離れず 神の約束を信じ 留まる態度が求められる

そして信じて待つ者に 神は約束の朝をもたらされる
しかも神はその時を「突然」与えられる

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、
彼らが座っていた家じゅうに響いた」(同2章1-2節)

神の約束されたもの 聖霊を受ける時を予期しえた者は
だれもいない
しかし 否 だからこそ 人はその場を離れず
神の約束を信じ 祈り 待つべきである

松戸教会 牧師 村上恵理也


2014年6月

語ること 聞くことの回復
聖霊の助けを祈り求めて

炎のような舌が分かれ分かれに現れ 一人一人の上にとどまると
一同は“霊”が語らせるままに ほかの国々の言葉で話しだした

使徒言行録の伝える聖霊降臨の出来事には
弟子たちの言葉の回復 殊に語ることの回復を見ることができる
それは“聖霊”が 言葉の同義語
“舌”と表されていることに象徴される
事実 聖霊を受けた弟子たちは 宣教の言葉を語り始めた

他方 聖霊の降るところには 聞くことの回復も見られる
ここには 弟子たちの言葉にとまどいつつも
彼らの言葉に耳を傾ける人の出現がある
「彼らがわたしたちの言葉で
神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」

聖霊が降るとき 人の間に 語ることと 聞くことが回復する
そのとき まことの意志の疎通が始まり 対話が始まる

ドイツ語圏では病院の診察室を“Sprechzimmer(シュプレッヒ ツィンマー)”という
“話し合いの部屋”とでも訳し得ようか
病む人の痛みが語られ それが聞かれるところに
治療の始まりを見ようとする医療者のこころがここにある

人と人のこころをよりよく 深い理解するために
言葉が語られ 聞かれなければならない
人は聖霊の助けと導きを祈り求めなければならない

松戸教会 牧師 村上恵理也


2014年5月

遠く眺めるところ

教会で子を育む

教会は復活のキリストの体であるといわれる
キリストを頭といただく教会に
人が結ばれ その肢(えだ)として生かされるとき
今なお生けるキリストが姿を現す

  それは何千という小さな石からなる モザイク画に似ている
白い石 黒い石 青い石 赤い石 大きい石 小さい石
近づいて その一つひとつの美しさを楽しむこともできる
けれども その醍醐味は 一歩さがったところで
全体を見渡すところにある

教会に招かれた一人ひとりは皆異なる
そして誰一人として 自分がキリストを指し示していると
単独でいうことはできない
教会は全体として復活のキリストを体現している

世にいう子どもの日を前に
教会に招かれた子ども一人ひとりの輝きと美しさを思う
しかし我々はそれを愛でるに留まらず
一人ひとりが 神の描かれる壮大なモザイク画の
欠くべからざる一石であることを思いたい

近く愛でるだけでは 子は個のままである
しかし遠く眺めるとき 子に固有の使命のあることを知る
膝に抱えた我が子をしばし離し 神の子と遠く眺める場
教会で子を育む親の祝福を祈りたい
語るべき言葉が与えられることを信じる

松戸教会 牧師 村上恵理也


2014年4月

十字架の執り成し
主の思いは人の後悔に先立ち

互いに伴侶に先立たれた 加賀乙彦と津村節子の対話
『愛する伴侶を失って』の中 津村氏は後悔を開陳している
病床に伏す夫のそばにずっとついているべきだった と

 過ぎたことを悔いる彼女を責める者はない
同業の伴侶こそ 彼女の仕事を喜んでいたのだから
ところが それは彼女の慰めにならない

伴侶の死後著した『遍路みち』に登場する“育子”には
津村氏の心が投影されている
「育子を打ちのめしたのは かれの死後その日記を開いた時
『育子、目を覚ますといない』
というページが三日続いていたことだ  ・・・
細いペンで書かれたその文字の錐(きり)のような先は
今も育子の胸に突き立ったままになっている」

意図して大切な人を傷つけることもさることながら
知らずして悲しませてしまうこと
さらには 取りかえしのつかない段でそれに気づくことは
人の心を締めつける

そのとき イエスは言われた「父よ 彼らをお赦しください
自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23:34)

主を十字架に括り付ける兵士 嘲笑罵倒の限りを尽くす群衆
彼らは皆 自分が何をしているか知らない
否 彼らは自分の正義を信じて疑わなかった

彼らがその過ちを悟るに先立ち
彼らの赦されることを執り成す 十字架の主の祈りがある

松戸教会 牧師 村上恵理也


2014年3月

沈黙から生じる言葉

そこに主が立っておられる

2011年3月11日午後2時46分18秒
あのとき浜松にいた 会議の閉会祈祷中であった
祈りを閉じ 目まいであろうと同席の方々と顔を見合わせると
そうではないことを承知した

胸騒ぎを感じながら新幹線に駆け込むと
それが大阪へ向かう最終列車となった
一駅ごとに半時間停車する車内には 不満の声が溢れていた
それがやがて沈黙へと変わっていった

一人ひとりに3月11日の記憶がある

しかしそれを語るのに躊躇をおぼえる
二か月後 岩手 宮城 福島 茨城と黒い海岸線を走った
その後も何度となく かの地に赴く機会を得た
その度に 多くを語るまいという思いが強くなる
否 厳密にいえば 語り得ないことを悟らされる

あの大きな自然災害とそれに続く人災を目の当たりにし
言葉を失った三年間
何事かを語り得る余地がどこにあるのか
それでも今 生きる者は語らなければならない

主があなたがたのために戦われるから
あなたがたは黙していなさい (出エジプト記14章14節 口語訳)

この地に主が立っておられる この確信に沈黙を保つとき
語るべき言葉が与えられることを信じる

松戸教会 牧師 村上恵理也


2014年2月

遠く離してはならない

悲しみを悲しみ切るために

  かつて教会の結婚式が ホテルの結婚式へと移行したように
今や寺院の葬儀は セレモニーホールのそれへと
取って代わられようとしている
生活様式の変化により 特定の寺院との結びつきを失った
現代社会の必然的な流れなのだろうか

 すでにドイツでは 教会にこの現象が見受けられる
教会がこれほどまでの市場競争にさらされたことはかつてありません
でした。死と悲哀の事態に寄り添う、教会以外の他の提供者の割合が
増加している市場は、何よりも葬祭業です。
『悲しみに寄り添う』ケルスティン・ラマー著

“他の提供者”は その事態にだれよりも早く駆けつけ
あらゆる手はずを整え 最後に宗教者を呼び出し
滞りなく 効率的に 葬りの営みを主導する
これと引き換えに 今や人の死は 家族の手からさえ遠く
病院化 私事化 個人化されているという

現実問題として“他の提供者”の協力は必要となる
しかし 死を 共に生きた者の手から遠く離してはならない
人は人の死に触れ 悲しみを悲しみ切る必要があるのだから
そのようにして 自らの命を生き切る必要があるのだから

十字架に散った主イエス・キリストの亡骸は
「勇気を出して」ピラトに申し出た ひそかなる弟子
アリマタヤのヨセフによって引き取られた(マルコ15:42)

松戸教会 牧師 村上恵理也


2014年1月

ひとつ集う礼拝

そこで奇跡が起きている

情報通信技術の発展は 広く社会に恩恵をもたらしている
教会も例外ではなく ホームページによる情報発信にはじまり
かつて過去の礼拝の音声記録の配信 やがて画像を伴う記録配信
そして今では 礼拝の同時中継も不可能ではないとのこと
こういう技術が 未だ教会に足を踏み入れたことのない方や
病床にある方の助けとなることを願っている

しかしだからといって
やがてインターネット教会が主流になると予感することはない
懐古主義ではない 律法主義でもない
我々はこれからも集い続ける
日曜日の午前中 ひとつ礼拝堂に足を運ぶ

発達段階に応じた言語習得に関する研究報告を聞いたことがある
乳幼児期の子に対して 親とは異なる言語を話す人を
モニタで映像として見せた場合と  直接対面させた場合
言語習得度は 後者が圧倒的に勝るという
同じ空間で人と人とが相対するとき何かが起きている

聖霊の充満する礼拝の場に 神の民は集う
そのとき 人と人のまなざしは互いを認めるだけでなく
ともに現臨のキリストを仰ぐものとなる
そして そこ独特の仕方で キリストの言葉を聴く
この奇跡が 教会では起きている

許されうる限り ひとつ礼拝に集おうではないか

松戸教会 牧師 村上恵理也

Follow me!