新しい旅立ちに生きる2015

ゾーエー・アイオーニオス(2015.12)

新しい旅立ちに生きる―39―

 11月29日の主日、私は鎌倉にいる孫夫婦と3人のひ孫(小学3年生、5歳の女の子と10月初めに生まれた男の子)と共に横須賀上町教会の礼拝に出席した。
この教会の牧師になったのは、松戸教会の牧師になる前だから、半世紀前のことである。上総大原、横須賀上町、松戸、それぞれの教会は、私が赴任する前に、教会内部に混乱と問題を抱えていた。横須賀上町教会は10数人の青年たちが、教会と幼稚園を支えていた。私が園長として赴任したとき、園児は17名であった。園児たちの名前と顔はすぐに覚えられた。私を迎えてくれた信徒の青年たち、その中の12名の青年たちの結婚式を1年余でした。若い元気な教会であった。私と同世代の信徒たちは、牧師と信徒というより、教会における友人関係の交わりであった。しかし、彼らは私を牧師として尊敬し、指導を受ける教会生活をしてくれた。ありがたいことであった。
11月29日の礼拝で説教したときには、当時、結婚式をした一組のご夫妻と幼い頃を知っているオルガニストがおり、日曜学校での私の説教が、今なお心に残っていると語ってくれた。
私の時代には、子どもと青年が中心の教会であったが、今は高齢者の教会になっていた。「子どもの礼拝」といっている集会には10数人の子どもたちと大人が出席していて、若い牧師が説教している姿を見るのはうれしかった。
横須賀で牧師をしていた頃、まだ日米関係の良かった時代で、週1回米海軍基地の中で行われる日本語礼拝で説教し、横浜のキリスト教主義学校にはたびたび招かれて説教した。三浦半島全体の教会の交わりがもっとも良いときであった。教団、教区のさまざまな役職につき、多く牧師たち、信徒たちとの交わりをもつことができた。また、久里浜少年院の教誨師として、月1回お話に行った。数年の短い期間であったが牧師として先輩牧師の指導と交わりをいただいた時代であったことを、教会の中にいる数時間で思いかえした。今、横須賀上町教会は「国登録有形文化財」教会となって地域の人々の協力関係があることも教えられた。


●石井牧師の予定●

  • 12月 6日 我孫子教会奉仕
  • 12月13日 我孫子教会奉仕
  • 12月20日 我孫子教会クリスマス礼拝奉仕
  • 12月27日 上総大原教会クリスマス礼拝奉仕
  • 1月 1日 松戸教会元旦礼拝奉仕

ゾーエー・アイオーニオス(2015.11)

新しい旅立ちに生きる―38―

 10月5日から7日まで、神戸東部教会での教団宣教委員会に出席した。宣教方策の基本的問題を協議する委員会である。教会の高齢化がある。若い人がいないという声を聞くが、そこではキリスト教主義学校、幼稚園、保育園には乳幼児から大学生がいる。しかし、具体的な伝道方策は明確になっていない。さらに教会には「こころの病」をもった人々が来る。この人たちが生きる勇気と力を持ってくださるための方策もはっきりできないでいる。教会の将来を悲観的に考えるのではなく、どうしたら希望を持った未来の教会を形成できるかを語り合った。各個教会も、信徒も、委員会もとまどっている現状である。
松戸教会は礼拝に、乳幼児から若者、壮年、高齢者あわせて150余名集まり、子どもの教会にも子どもたちが数十名集っている。松戸教会の課題は「自己満足」?信徒の信仰を変える主の導きを願うこと、行くべき教会のあり方を正しく見極めることである。礼拝者10名もいない教会、20名前後の教会の代務主任をしていて、毎週の礼拝に子どもの声も姿も見ることがないことは淋しいことである。希望の出てくる方向がどちらなのか、私にも見いだせない。
市川三本松教会の創立100周年記念礼拝、愛餐会に出席した。戦前、千葉県に旧同胞教会の伝道がなされ、野田教会、船橋教会、市川三本松教会、松戸教会が誕生した。のちに福音教会と合同して、福音同胞教会となり、1940年(昭和16年)日本キリスト教団に合同した。今こそ、同胞教会と福音教会の戦前の伝道教会形成について学ぶべきことがある。その遺産を受け継いで検証する意味がある。過去にこだわりすぎることは問題であるが、過去を正しく学んで、将来に対する希望を持つことは、現在のキリスト教会に欠けていることである。40年に及ぶ日本キリスト教団の混乱によっていろいろな形で失ってしまったことが多い。しかし、過去を正しく検証して、将来に対する目的をはっきりと見極める必要を感じている。アメリカで差別、貧しさの中にあった黒人たちに変革の希望を与えてくれたキング牧師は「私には夢がある」と言った。私も日本の教会の将来に「夢がある」と信じている。


●石井牧師の予定●

  • 11月 1日 我孫子教会奉仕
  • 11月 8日 我孫子教会奉仕
  • 11月15日 上総大原教会奉仕
  • 11月22日 我孫子教会奉仕
  • 11月29日 横須賀上町教会奉仕
    (私の50数年前の前任教会)

ゾーエー・アイオーニオス(2015.10)

新しい旅立ちに生きる―37―

 敗戦後70年でいろいろなニュースや雑誌、新聞などが70年前の日本の国の姿を見せてくれた。私も努力していくつかを見た。新聞、雑誌も読んだ。70年前の日本の国の中で生きてきた私は、テレビで見せてくれる映像は確かに事実だが、その映像では飢えの只中で、何をしたらよいのか、一日一日、ただ生きているだけですべての希望を失っていた事実をとらえることができないむなしさを感じた。今、生きて、生活している人々は「戦争に負ける」ということは、大変なひどいことだったのだと思っているが、実感はない。あの悲惨さの只中を生きてきた人たちは、語っても空しい言葉だけが残る感覚をもっている。松戸教会の敗戦後の70年の、その大部分を共に生きた私が「ああだった」「こうだった」と語ってもその痛みと苦しみを共にすることは難しいだろう。おそらくは「おはなし」として「そうだったの」と聞いてくれるだけのような気がする。
来年は日本国憲法も70歳を迎える。私は 69年前に憲法を読んだときの気持ちをあらためて感じている。特にその思いを忘れることはできない。

 「戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認」
日本国憲法第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。
二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

これを読んだとき、まだ戦争は世界の中で続いていた。戦争をしないということを憲法で定めたということは何を意味するかについて、学者や人々の声が聞こえてきた。その中には「九条で、武器を持たないと決意したということは、もし他国の人たちが日本に武力をもって攻撃してきたときには、日本人はみな殺されてよいということだ」と言った人がいる。
日本国を武力も持たず、戦争もしないと「九条」で定めたのだから、日本国が亡びても、みんな殺されても「九条」によって亡び消えていった国があるということが歴史の1ページに残ればよいのだと私も決心して、日本国憲法、とくに「九条」を守っていけばよいと思った。69年前に憲法が公布されたときから、私はその覚悟をして生きていけばよいと思い続けてきた。
最近の政治の動き、世界の状況をみていると、日本国が亡びないように守るのだ、殺しにくる者がいたら戦って相手をやっつけてよいのだという憲法になるのだ。そして日本国が亡びないように守ることが政治の大切な働きだという声が強くなってきたように感じる。
69年前に、私が憲法第九条を読んで決心したその決意は無用のものとなったのだ。国民が殺されない、亡びないように守るのだと政治は語るのだから。戦争はしない、武力ももたない、という限り、日本国は亡びて、人々は殺され、歴史から消えていく、そしてそれでいいのだと覚悟して、第九条を日本人は守らなければと、ひそかに、大きく声を出していかなければならない。私の言うことは間違っているかな?ボケてきたのかと感じながら、それでも今しなければならないことがある。この国が赤ちゃんから老人までみんな幸せに生きて行くことができる社会にしていきたいという思いでいる。
ルターが語ったと伝えられている言葉が心に響いてくる。「明日世界が亡びても、今日リンゴの木を植える」。教会は明日なくなるとしても、今日は礼拝を守り、祈り続ける。私の社会福祉のすべての働きも、やがて、いや明日なくなるとしても、今日は乳幼児から老人のために、一番必要なことを私のできる力でやり続けたいと祈っている。
9月は、はじめて招かれた大阪の河内長野みぎわ教会の礼拝と、佐倉教会の礼拝で奉仕した。佐倉教会では、午後の教会全体修養会で「佐倉教会のこれまでとこれから―千葉支区諸教会と共に―」という題で1時間30分話した。
河内長野みぎわ教会は朝の礼拝だけで、午後は娘しのぶの一周忌を、大﨑家の堺の親族と共にしてきた。しのぶが大﨑家の親族ともよい交わりをもっていたことを聞いて、感謝した。
我孫子教会の代務主任牧師として、89歳の会員の死に際し、葬儀をした。葬儀を執り行ったその日はその方の誕生日であった。80歳で洗礼を受け、関西から我孫子におられる長男一家のもとに来られたときにも、教会に行けるようにしてほしいと希望されたと聞いている。どこに行っても、教会生活を守る志をもってくれることが、信徒として大切だと思った。


●石井牧師の予定●

  • 10月 4日 我孫子教会奉仕
  • 10月11日 我孫子教会奉仕
  • 10月18日 上総大原教会奉仕
  • 10月25日 我孫子教会奉仕

ゾーエー・アイオーニオス(2015.9)

新しい旅立ちに生きる―36―

miyazakishuichi

故宮崎周一中将

 7月8月になったら、戦後70年ということで、あらためてあの8月15日を中心とした敗戦前後のことが目にも耳にも聞こえてきた。8月15日を過ぎたら、敗戦後70年という言葉が消えていってしまった。
8月16日夜、NHKの「”終戦”知られざる7日間」という番組を見ていた。すると、義父宮崎周一のことが語られていた。敗戦は8月15日で新しい「平和日本」になったのではないことを見せてくれた。
9月2日、軍艦ミズーリ号上での降伏調印式に義父は杉山元帥と並んで立っている。どんな思いを込めて調印式に出席していたのか。宮崎は、陸軍大学校の副校長として戦時中の陸軍指導者の教育をしてきた。参謀として、戦史の研究者として古今東西の戦史に深い理解を持っていた。
義父が大本営参謀本部第一部長(作戦部長)として戦争末期の不利な時期に全陸軍の作戦を担当してきたことは、私なりに理解していたが、詳しい話はできなかった。いや、聞かないことにしていた。しかし、今でも心に残っているのは義父が「自分は敗戦の処理を全部してきた。敗戦の処理で一番大事なことは、司令官上層部の責任の取り方によって、大きな間違いを犯すし犠牲も大きくする」と言ったことである。どんな時代でも変わらないなと思って聞いた。
日本の敗戦の始めとなったガダルカナル作戦の日誌「残骸録」で、義父が当時の軍首脳部へ厳しい批判をしていたことも知った。
戦争中に全陸軍の作戦の指揮を執り、戦犯となった人々が多くいた。義父は、陸大から大本営に入った敗戦の只中であったため戦争責任は問われず、敗戦処理としてアジア各地から引き揚げてくる人たちの責任をもった。閣下、将軍と呼ばれていた義父は、その後、いくつか戦後の働く場を与えられようとしたが、一切受けなかった。
宮崎周一は1969年10月16日に死去した。現教会堂の建設中で、平和保育園の仮園舎で私が葬式をした。

●石井牧師の予定●

  • 9月 6日 我孫子教会奉仕
  • 9月13日 河内長野みぎわ教会
    奉仕(大阪府)
  • 9月20日 上総大原教会奉仕
  • 9月27日 佐倉教会奉仕

ゾーエー・アイオーニオス(2015.8)

新しい旅立ちに生きる―35―

 7月はあちこちにでかけると共に、後半で私の健康による事件をおこして皆さんに心配をかけてしまった。
7月6日~7日と教団宣教委員会で和歌山教会に行ってきた。羽田から関西空港に行き、そこから特急バスで40分というところであった。宣教委員会は、教団の伝道、教育、社会各委員会の委員長と自主活動団体の婦人会連合、教会幼稚園、キリスト教保育同盟の代表が加わっている。私個人としては、保育所同盟の担当理事として10年近く責任をもってきたので、今期奉仕したあとは同盟理事長か適当な人に代わってもらうつもりである。幼保一元化を実現しようとして、国の子育ての方向性が今なお混乱している。宣教委員会としても乳幼児からの子育てを改めて捉えなおす必要がある。特にキリスト教幼稚園が、明治以来、日本社会で果たした役割は大きなものがある。宣教委員会としても、青年、高齢者の問題とともに乳幼児からの保育、教育、さらにキリスト主義学校、キリスト教社会福祉のあり方も教団の宣教の場から、どのような方策を立てることが必要かを、今総会期の宣教委員会の課題としてとらえていく方針を進めていくことにした。
7月12日(日)に、近藤国親牧師が奉仕されている山形県宮内教会、学校法人宮内幼稚園を土地も建物も新しくした認定こども園を見ることができた。よいお働きを祈ってきた。
7月23日救急車で入院し、30日に退院してきた。考えてみると、50年間、いろいろな病気をしてきた。40年前に、内痔核の出血で限界を超えて入院手術した。1か月近く入院生活をして一応 治った生活をしてきた。その後30年前に膵臓癌(すいぞうがん)による治療を受けた。99%、死に至る病と言われている病気である。昭和天皇も同じ病気であったが、天皇を手術された医師によって、天皇の死の一年前に手術を受けた。6か月間療養して幸いにして膵臓3分の2を取って3分の1で生きることを許されてきた。その後も心筋梗塞(しんきんこうそく)による入院、結果としてペースメーカーを入れることによって、通常の生活を取り戻した。ところが忘れていた痔の出血が出てきた。診察を受け、新療法による治療を受けることで治ることがわかったので、病院に行って治療を受けることにした。膵臓から出ないインスリンを補うために、日々血糖値を測り必要な時には注射によって補っているが、治療を受ける当日、食事をしないでインスリンを打って病院の治療を受けた結果、自分では普通に動けると思っていたが、低血糖になっていてトイレに立って行ったら意識不明になってトイレ前で倒れて頭部を打って大出血した。頭部を四針縫って二四時間絶対安静の中、輸血その他の治療により、ようやく身体はすっきりとしてきたところだ。
7月の間に事件が次々と起こったが、同時につらい報告も受けた。上竹澄子さんの逝去の知らせを受けたのだ。40年以上に渡って、松戸教会はたくさんの家庭集会をしてきた。その一つに中国分集会がある。上竹家、佐々木家、碓井家としてきた。上竹さんは、外科医で私の主治医であった。上竹澄子さんが先に教会に来られて洗礼を受け、やがて家庭集会を始めてくれた。10数人毎月集まっていた。やがて上竹正躬さんも洗礼を受けた。この集会に出席していたG夫妻が集会ごとに非常識な行動を取られ、上竹夫妻から家庭集会、礼拝にでることも耐えられないとの話を聞き、やむをえず東京のR教会への転会をすすめた。R教会も上竹夫妻を歓迎してくれたが、教会内の運営で信徒間の対立があり、両者から相談を受けて困惑していた。やむをえず、礼拝を守るためにカトリック教会への転籍の相談を受け、受洗牧師の推薦証明書があれば、カトリック教会は教会員として受け入れるということであったので、私が書いた。その後夫妻と長く交流があり、上竹正躬さんの死の前日には病院で「臨終の祈り」を牧師として捧げた。そののちも上竹夫人と交流があり、透析する生活が続き、7月19日に死を迎えた。家族だけで送りたいというので、セレモニーホールで「葬送の祈り」を捧げてお別れをした。松戸教会での牧会上、語れないことが多くあったが、一つの時がきたので書くことにした。
後に当時の役員の一部と共にG夫妻は私に対するあらぬ誹謗を教会員に語り、その言葉を信用した数十人が教会を去った。教会の内部の信仰の立場によるお互いの批判はあってもよい。しかし自分たちの声を聞かないという理由で牧師個人を誹謗することは、教会員を多くつまずかせることになる。時に牧師には死するまで語らない事柄があるが、松戸教会が真実な教会として、愚かな人間のつまずきと批判によっても、まことの教会生活を失わない信徒たちであることを祈っている。


●石井牧師の予定●

  • 8月 2日 我孫子教会奉仕
  • 8月 9日 我孫子教会奉仕
  • 8月16日 上総大原教会奉仕
  • 8月23日 我孫子教会奉仕
  • 8月30日 松戸教会奉仕

ゾーエー・アイオーニオス(2015.7)

新しい旅立ちに生きる―34―

 牧師として、毎週礼拝で説教することができることは、私のような年齢になった者には感謝である。聖書を読み、準備する学びを続けていることによって、心身の、また識別力、判断力、思考力の訓練をしている。ありがたいことだと思わなければと思いながら、説教者として自ら訓練している(チョットくたびれてきたか?)。
さらに牧師の働きとともに、社会福祉法人の理事長として、長く働いてきたのは、保育のことである。ひとつの保育園から、今年中には10か所の乳幼児、児童の施設をもつことになる。
私は、全国私立保育連盟の千葉県の創立とその後の発展に少しだけ関わりをもってきた。今は年齢的にいえば、息子、娘の年代の人々が中心的になって、活躍している。毎年全国の県にある保育団体が中心になって研究大会が開かれている。2000名余を超える保育関係者が集まっている。今年は鳥取県で開催された。鳥取市のホテルは市内ホテルに入りきれないほどの集まりである。私は、中の一日を「すべての子どもに求められる制度の構築に向けて~人口減少地域と新しい制度・保育に取り組む~」という分科会で学んだ。都市部では待機児童対策で、待機児ゼロにしていると新聞・ニュースで伝えられている。分科会で教えられたことは、待機児童問題を抱えている地域は、全国で約6%、50%は人口減少地域で、40名の定員の施設が20名あるいは10名になってしまう現象がおきていることだ。人口減少地域の保育園がこれからの子育てをどうしたらよいか悩みを抱えていることを知った。千葉県下も都市部を除いて同じ状況である。

20150705ishi 今回の研究大会で「保育功労賞」を受けた。何年か前にもいただいた記憶があるので、辞退したが、もう決定したので受けてくださいと言われて、長く子育ての保育事業に関係してきたしるしとして受けてきた。賞よりも松戸の乳幼児、児童の子育てのこれからの問題をなんとかよりよいものにしていきたいと願って、松戸市の「子ども子育て会議」の一員として自分のできる協力と私たちの法人のできることをしていきたいと願っている。
このためには、松戸教会も社会福祉法人ピスティスの会と協力と協働の業が必要だと願い、祈っている。


●石井牧師の予定●

  • 7月 5日 我孫子教会 奉仕
  • 7月12日 宮内教会(山形県) 奉仕
  • 7月19日 上総大原教会 奉仕
  • 7月26日 我孫子教会 奉仕

ゾーエー・アイオーニオス(2015.6)

新しい旅立ちに生きる―33―

 今年は敗戦後70年である。私は、小中学の教育を戦中の只中で、軍国主義、天皇教育を受けて1945年8月15日でそれまで受けた教育が、すべて消えてしまった。そこから目標も希望もない中で、何を考えてどう生きるかとまどいながら、キリスト教会の門を迷いながら入っていった。戦中戦後の被害者意識の声は小さく聞こえたが、敗戦の意味ははっきりしなかった。ここ数年ようやくまともな「敗戦論」が語られている。
聖書も語学(ギリシャ語、ヘブル語、ラテン語)辞書もなかった。初めて見た聖書は新約聖書だけだった。英語もドイツ語も安っぽい英会話の本があるだけの中から、牧師になるための勉強を始めた。戦後初期の労働運動は、「食うため」「生きるため」の戦いだった。何となく平和らしい日本社会の中で、すでに牧師になっていた私が「日本の教会の行方」を少しは考えていたときに大学紛争がおこり、教会もその中に巻き込まれていった。紛争の只中で、日本キリスト教団の『信徒の友』の編集長になっていた。あのとき教会の将来を思って、何より「キリスト教の原点」に帰るべきだと思った。初代教会と初期キリスト教会がどのように形成されてきたかをあらためて学びなおした。松戸教会は、教団紛争の只中で教勢だけは増えていった。毎週250名近い人々が礼拝に出席していた。教団は嵐と混乱の中、私は編集長として毎月1週間は全国の諸教会を取材し、信徒たちと出会った。この時代に教会生活をしていた信徒たちが『信徒の友』の読者として教会の基本と原点に生きる大切さをしっかりと持っていた。紛争の只中の40年が終わりつつあるとき、私は編集長を辞した。松戸教会を忠実に支えてくれた信徒が、病気、老い、死を迎えていたときに、バブルの只中を生きて教会や仕事の繁栄を歩んできた当時の中年世代が会社経営と教会経営を同じように思って発言し、教会を混乱させた。牧師である私への厳しい排斥の声が教会員にも躓きと不信を与え、教会を去っていった人たちがいた。52年間の牧師としての歩みの中で後半20年近い間、教会を基本的信仰と原点に帰ることのために私の祈りがあった。そのような私をなぐさめ励ましてくれた本が「むのたけじ」の書いたものだ。現在100歳という。敗戦のとき、それまでの記者の責任を感じて朝日新聞社を退社し、秋田県横手で「たいまつ」という新聞を書き続けた。

 「今の世には明るいものは余りに少なく、暗いものは余りにも多く見えるが、両者は別個のばらばらではない。絶望と見える対象を嫌ったり恐れたりして目をつぶって、そこを去れば、もう希望とは決して会えない。絶望すべき対象にはしっかと絶望し、それを克服するために努力し続ければ、それが希望に転化してゆくのだ。そうだ、希望は絶望のど真ん中の、そのどん底に実在しているのだ」(『希望は絶望のど真ん中に』岩波新書)

この言葉は、あらためて私の慰めと希望となった。
昨年、娘しのぶの死を経験して、5月16日に松戸教会墓地に埋葬し、「しのぶ会」をした。しのぶは、ほとんど家をかえりみない父をもち、妻礼子も母子家庭のような生活を続けながら、とにかく外に教団、教会の混乱をみてきた。ようやく幸せと平安を与えられる生活がきたときに、夫の洋、子どもの結と史丸、そして結の妻、麻衣比によってふらわと心和という孫を与えられて、愛する者たちを残して死を迎えた。埋葬式で、しのぶの遺骨の壺の傍らに、やがて私の入る骨壺をそばにおいた。もし妻が先に死を迎えたら、私のために造っていただいた骨壺は妻のそばに「やがて一緒に入るからな」といって葬るつもりが、娘しのぶのそばに置くことになった。
これから、私は家庭も子育てもかえりみなかった罪滅ぼしの思いで、家族みんなでゆっくり楽しいときを持つことができるかと願っていたが、妻、子、孫、ひ孫と一緒の交わりをしのぶを加えてできなくなった。ちょっぴり淋しく思っている。


●石井牧師の予定●

  • 6月 7日 我孫子教会 奉仕
  • 6月14日 我孫子教会 奉仕
  • 6月21日 我孫子教会 奉仕
  • 6月28日 松戸教会  出席

ゾーエー・アイオーニオス(2015.5)

新しい旅立ちに生きる―32―

 2015年3月31日で、2年間代務主任牧師として責任をもった横浜菊名教会、菊名愛児園を辞任した。適任の主任牧師を迎えることができた。この辞任を待っていたように、千葉支区長から我孫子教会の代務主任をしてほしいと要請があり、断りきれず、4月1日から役員会その他の責任をもってきた。我孫子教会には、日曜の朝行って、夕方に帰る。宿泊する必要がなく、少しは別の時間をもつことができる。我孫子教会は月2回の説教牧会と、週日に1、2回行くことにしていただいた。上総大原教会は、月1回代務主任牧師として続ける。幸い、他の主日は隠退教師が毎週2、3泊して協力してくれることになり感謝している。松戸における保育園、放課後児童クラブ、ほっとるーむなど、乳幼児から小学生までの子育て事業については、なお責任をもち続けざるをえない。さらに、事業が大きくなる可能性もある。現在、8つの施設の社会福祉法人理事長として責任をもっている。
2015年度も、休みはない。しかし、私を慰め、励ましてくれる散文詩を読んだ。

 「徒労の杯」
神さま わたしはそれでも生きています。それは希望に支えられているからでありません
これで死んでも死にきれないからです。やはり私は生きたいのです。生き生きとした魂を吹き込んでほしいのです。
神さま その生き生きとした命は愛だとおっしゃるのですね。そしてその愛さえあれば、何をしても生き生きとしてくるのですね。
その愛をください。その愛で愛せるようにその愛の中でわたしもよくなり生きかえられますように。
神さま その愛をいただくためにいったい何をささげよ、とおっしゃるのですか。立ち上がろうとする足下からくずれてしまうわたしの日々の繰り返し。もうおささげするものはありません。
我が子よ 一つある。その前の徒労の杯をささげなさい。十字架上に力尽きてくずおれた主の前に。これだけはいつまでも残るのだ。これだけは消えることのない希望のささげなのだ。

読み人を知らない。消えることのない希望のささげ、どんなどん底にある人間も新しい希望の光をもう一度味わうことを信じて生きていく。新年度の歩みをはじめている。


●石井牧師の予定●

  • 5月 3日 我孫子教会奉仕
  • 5月10日 我孫子教会奉仕
  • 5月17日 上総大原教会奉仕
  • 5月24日 我孫子教会奉仕
  • 5月31日 上総大原教会奉仕

ゾーエー・アイオーニオス(2015.4)

新しい旅立ちに生きる―31―

 2015年3月末で、2年間代務主任牧師をした横浜菊名教会と附属している菊名愛児園における働きを終える。よい主任牧師を迎えることができたことに感謝している。3月29日の礼拝後には、感謝会があり、またその翌日には菊名愛児園の園長、主任たちと話し合って帰ってきた。
教会の人々の感謝と別れの言葉のほとんどは私の身体のことを心配してくださる言葉であった。あらためて、かつての日本語のいわゆる「大和言葉」を思い出した。私の若い時は、「老人」といっても60代の人々が中心であった。その人たちが語っていた「大和言葉」を思い出した。
手紙の結びの言葉で最もよく使われるのは「時節柄ご自愛ください」であった。その頃いただいた手紙には大和言葉の柔らかいひびきを生かした「お身体をお厭い(いとい)ください」と書いてくださった人がいた。意味はほぼ同じだが、手紙で相手の身体について触れるときは、人間以外にも用いる「体」という字を使わず「身体」と書いて「からだ」と読ませる慣習があった。高齢の人や病人、体の弱い人に対して、体調を気遣った場合は、結びが「どうぞ御自愛ください」では、少し物足りない感じで「くれぐれも」を使って「くれぐれもお身体をおいたわりください」「くれぐれもお身体を大切に」と書いてある手紙をいただいた。そこには、相手の健康を深く願う気持ちが伝わる。
もうこのような言葉を使う人は少なくなったが、新しい今の言葉で相手の身体と健康を気遣ってくださる言葉をたくさんいただいてきた。あらためて思い返して、私自身、たくさんの人からいたわられる立場になったのだと思った。
横浜菊名教会の2年間は、前任牧師の辞任についても、またその具体的な事情を語ることができなかった。教会員の多くの人々は突然牧師が辞めて、私が代務主任牧師として招へいされたことにとまどいを持っていただろう。横浜菊名教会は私の母教会ではあるが、教会から離れてひさしく、私を知っている人は数人しかいない。さらにその方々もみな老人になり、あるいは天に召された。もう身体の状態で教会に出席できない人も多い。私を知っている人がほとんどいない中で、また、初めて会う牧師を迎えることに「なぜ?」「どうして?」という思いを多くの人が持っている中で、礼拝を共にすることは、教会員にとっても、とまどいがあっただろう。しかし、ほぼ毎週2年間、礼拝、その他各部委員会、教会学校の交わり、さらに葬儀、結婚式の司式をする中で、少しずつ親しい関係ができてきた。「しっくりいかない」人間関係から、親しい関係をもつことができるようになってきた。
私は、長く松戸教会の中で「遠慮なく話せる」関係を教会の方々ともち、「厳しい言葉」を語っても、受け入れていただいてきた。横浜菊名教会において「遠慮なく話せる」関係をもつためには、2年間という時間がかかった。土曜、日曜、月曜という3日ずつの交わりだからやむをえなかったと思う。しかし、ようやく「心安さ」をお互いに感じるようになって、次の牧師にすべて委ねてくることができた。私自身も「心安さ」を感じているところである。
3月末を待っていたかのように、次の仕事も委ねられている。わが家の夫婦げんかは、「もう何も引き受けないで」「やめてください」という言葉が主なものである。この厳しい言葉の中で、心の中で「まだ何とか動けるからやるよりほか仕方ない」とつぶやきながら4月の生活を迎える。
社会福祉法人ピスティスの会理事長としての働きがある。ピスティスの会では、4月からは8つの施設(第一平和保育園、第二平和保育園、相模台放課後児童クラブ、中部放課後児童クラブ、馬橋北放課後児童クラブ、放課後KIDSルーム相模台、E―こどもの森・ほっとるーむ松戸、加えて、へいわオリーブ保育室)を運営している。それぞれ責任を持ってくれる方はいるが、理事長として、私が負わねばならない責任もある。
2015年度も松戸教会の礼拝に出席できるのはわずかであろうと思っている。いくつかの教会において主日礼拝の奉仕をすることになっている。この責任も果たしていきたい。
松戸教会の人たちは「いたわり」の気持ちより、もうやめてゆっくりしてくださいという声のほうが多いかなと思いつつ、とにかく何とか動けて、口もきける間、私に与えられし責任を果たしていきたいと願っています。
日本基督教団の宣教委員会、日本キリスト教保育同盟の理事、日本キリスト教社会福祉学会、赤ちゃん学会の会員としても続けて関わりをもつ。千葉支区では、宣教基金運営委員会の委員長として千葉支区常任委員会の陪席をしている。松戸市の子育てのいろいろな責任も続けていかなければならない。
お祈りください。


●石井牧師の予定●

  • 4月 5日 松戸教会奉仕
  • 4月12日 我孫子教会奉仕
  • 4月19日 上総大原教会奉仕
  • 4月25日 我孫子教会奉仕

ゾーエー・アイオーニオス(2015.3)

新しい旅立ちに生きる―30―

 キリスト教の歴史において、3世紀の教父時代に用いられてきたレクチオ・ディヴィナ(聖なる読書)の教えを学んだ。レクチオ・ディヴィナのことを「神に近づく4段のはしご」と表現して、レクチオ(読む)、メディタチオ(黙想する)、オラチオ(祈る)、コンテンプラチオ(観想する)と、祈りのはしごを1段1段登っていくと、神と交わることができると教えている。中世期の修道院で行われた霊的訓練であった。

 レクチオ・ディヴィナのラテン語の言葉によって私自身の信仰生活の貧しさを教えられた。聖書のみ言葉の説教の準備をしているとき、特にはしごの4段目、観想するところでは、神に全てを委ね、小さな気づきや神との出会いの大切さを感じている。誇るべきことより失敗したことを感じる中で、改めて読む生活の少なさを感じている。土曜、日曜日を松戸教会とは別の教会で説教・牧会するとき、ホテルの中の一人の時間が、私の黙想になっている。毎日短い時間であるが、祈ることができる。しかし不思議なことに観想することは、一つ一つの仕事の只中で、少しできる。4段のはしごを毎日登って生きたい。歩くことも身体を動かすことも、すっきりできないが、生涯をかけて生きてきた道にもう一度くぎりをつけて4段のはしごを登る生活をして生きていきたい。そして信仰の歩みを共にしている人にも、もう一度共に4段のはしごを登っていく生活を、と願っている。

2月14日に佐世保の光の子福祉会40周年記念事業で、吉本興業の間寛平(はざまかんぺい)さんが2年数か月をかけて地球を一回りした体験を聞いた。自分のダメさ、弱さ、苦しみを全部さらけ出して、途中ではガンを告知されても、歩き走り続けた。太平洋、大西洋だけヨットに乗ったが、命の危険にあう旅を、笑いと涙の中で1時間半語ってくれた。誰もやらなかったことをどこまでできるかやってみようと決心して、終わりまでやり通した物語を感動して聞いた。個人的にお会いした間さんは、小柄な笑顔と優しさをもっている暖かい人であった。あの困難な誰もしたことのないことをやった人と思えない穏やかな人であった。間さんは、信仰者でないと思うが、みごとに4段のはしごを登り切った人だと教えられた。


●石井牧師の予定●

  • 3月 1日 横浜菊名教会奉仕
  • 3月 8日 横浜菊名教会奉仕
  • 3月15日 上総大原教会奉仕
  • 3月22日 横浜菊名教会奉仕
  • 3月29日 横浜菊名教会奉仕

ゾーエー・アイオーニオス(2015.2)

新しい旅立ちに生きる―29―

 敗戦後70年ということが、新聞ニュースで伝えられている。14歳であった私は「お前たちは国家のために25歳までに生命を捧げろ」と教えられて生きた。「生命を捧げる」国家も天皇もなくなってしまった。あのときのむなしさは、70年たっても忘れられない。
当時、私は横浜にいたから、占領軍がすぐに現れた。彼らの姿と兵器を見たら「竹槍」(たけやり)で勝てるはずがないと思った。何をしてよいかわからないまま、一番敵だと思っていたアメリカの宗教、キリスト教にまよいこんでいた。キリスト教ブームに乗って、若者があふれていた教会から、少しずつ人々が離れていく中で、牧師への道に学んでいる自分を許せない気持ちを少し持ちながら、 1950年代半ばに(当時は伝道師4年目に正教師試験を受ける制度であった)、なんとか教師試験に合格して、牧師になった。当時の日本キリスト教団は、40代以上の牧師たちと敗戦後に牧師になった人々がおり、20年の年の差があった。私は、牧師になると、教団の農村伝道、青年伝道、KKS(高校生)伝道の中心的働きをするようになった。さらに教団新報の編集もした。当時は、今のガンの病のように、療養所は結核患者であふれていた。毎週3日間くらいは、療養所、病院の集会をした。少し先輩の若者、同世代の若者が戦争によって死を迎えるのではなく、病のために死に向かっていた。どれだけ多く死の病床の傍らで祈って天に送ったか…。忘れられない信仰の友が多くいる。
教団は『信徒の友』を1964年に創刊し、さまざまな機構改革がなされて、これから教団は一致して伝道の働きができると思っていた。しかし、1969年9月1日に行われた教団常議員会では、東神大、同志社、その他の神学生だけでなく、一般の大学生、若者たちによる教団批判、キリスト教批判の激しい怒号、汚い罵りの言葉が叫ばれた。教団、教区、教会の中でも同様であった。
教団総会も教区総会も開催できない只中で、私は1972年に『信徒の友』『こころの友』の編集長になった。のちに『礼拝と音楽』編集長も兼務した。当時の松戸教会は私の牧師職と保育園園長職をよく支えてくれた。教団の混乱の中で、そして教会批判、キリスト教批判の厳しい中で、教会の信徒は、礼拝を守り、聖書を正しく聞くことを学ぶために努力し、その支えに『信徒の友』を読んでくれた。その頃、松戸教会では毎月150部を超える読者がいた。私は編集長として、教団の混乱の中で、どこへ行っていたとしても必ず帰って来て、日曜日の礼拝を守った。20年余、全国の教会に毎月1週間は編集長として取材訪問をした。創刊50年の記念号に、20数年編集長を続けてきたその思いを次のように語った。

 当時、キリスト教雑誌ジャーナリズムの編集者が30人位集まって泊りがけの研修会をしました。「君はどういう姿勢で雑誌の編集をするつもりか」と聞かれたので「聖書に書いてあることを信じて、キリスト教の基本的な精神、信仰をこの雑誌の中で伝えていくことが大事だと思っている」と答えました。そうしたら何人もの人から「それでジャーナリストなのか、雑誌編集者なのか」と笑われました。私は教団の混乱の中で、「信徒の友」は聖書の基本に帰るということを貫くよりほかないと思っていました。ですから、何と批判されようとも構いませんでした。しかし、それは当時のキリスト教ジャーナリズムの世界では、まったく異質だったわけです。私の主張は少数派でした。しかし「信徒の友」という題名をつけた以上、教団信徒の信仰はいかにあるべきか、福音的信仰を編集し続けることが必要だと思っていました。これを支えてくれた教団出版局と編集委員、編集職員には感謝しています。

当時、教団の中では、礼拝よりも社会活動、デモに行くことが、キリスト者の在り方だという声が多く聞こえていた。私自身も、私の編集方針に批判を持つ人たちから、厳しい批判や編集内容を変えろという糾弾の声を何度も何時間も聞かされてきた。創刊30年の時に、もう私の使命は終わったと思って編集長を辞任した。20年経って創刊50年に際し、私の思いを少し聞いてもらった。今、日本の教会の課題は重く厳しい課題が多くある。
1月は3回、牧師たちの集まりに出席した。もう、かつての教団の問題を知らない人が多くなった。本当の一致と伝道の業が始まるのはこれからだろう。松戸教会は少なくとも、敗戦後、福音的信仰の基本を持ち続けてきたし、これからもそれを教会形成の基本として歩んでほしいと祈っている。


●石井牧師の予定●

  • 2月 1日 横浜菊名教会奉仕
  • 2月 8日 横浜菊名教会奉仕
  • 2月15日 有田教会奉仕(長崎県)
  • 2月22日 横浜岡村教会奉仕(横浜菊名教会と講壇交換)

ゾーエー・アイオーニオス(2015.1)

新しい旅立ちに生きる―28―

 2014年のクリスマス、松戸では2つの保育園のクリスマス礼拝、祝会に参加できただけで、あとは横浜菊名教会のクリスマス諸集会と菊名愛児園のクリスマス会の行事2回に出席した。横浜菊名教会のクリスマスは、代務主任牧師の責任を持って2回目である。牧師として説教、お話の責任がある。松戸教会時代も毎年クリスマスのお話を十数回してきたが、同じような牧師責任を果たしてきた。
横浜菊名教会での受洗者、転入会を希望する人があればと祈ってきた。10月、11月と礼拝前30分間の準備会を計画し、週報に予告を記した。一人でも洗礼志願者が出てくれればと願っていた。10月の第1回準備会において、受洗志願する人が3名、転入会を希望している人が3名いることがわかり感謝した。代務主任牧師としては1年で後任者が与えられればと願っていたが、やむを得ず、2年間責任を持った。これ以上の責任を持つことは、今の私の生活と体力では限界があると思っていたので、数名の後任候補者とお会いしお願いをしてきたが、ようやくよき後継の責任を負ってくれる牧師の承認を得たので、1月25日に臨時教会総会を開催して4月より就任してくださる牧師の招聘と私の代務主任の辞任を定める日を迎えることができた。
牧師、伝道者としては短い期間であっても、受洗の決心をしてくれる人が与えられることは大きな喜びであり、神の恵みと思ってきた。横浜菊名教会での2年間の奉仕の中で、3名の男性の受洗と、1名の男性、2名の女性の転入会を迎えることができたことはうれしいことであった。横浜菊名教会は毎週の礼拝に100名をこえる人々が出席している。一昨年4月の就任以来、葬儀を4回、結婚式を2回奉仕して、新築する家の定礎式も行った。
松戸教会員のための葬儀に出席できなかったことは、長い信仰の交わりと教会生活をしてくれた方々には、申し訳なく思っている。
以前の月報にも記したことであるが、私たち夫婦の娘しのぶは昨年9月20日に死を迎えた。牧師として、長い信仰の交わりをいただいた方々、またその家族の葬儀をしてきた。松戸教会の牧師としての50年余の間に200名をこえる人々の葬儀をしてきた。一週間に3回の葬儀をしたこともあった。その中でも、子を失う親の悲しみを共にして葬儀することは、一番つらいことであった。その悲しみの日がわが家に来たことに、なぜと戸惑った。娘婿大﨑洋は堺市に大﨑家の菩提寺をもっている。親である私が牧師であったとしても、日本の家の習慣からすれば、仏式での葬儀もやむえないことと思っていた。しのぶの数か月の入院生活中に見舞いに行っても、洋さんと葬儀については話せなかった。洋さんも私も話せないことだった。しのぶが入院したはじめ頃、「俺より先に死ぬなよ?」と声をかけたとき、じっと私の顔を見つめていたしのぶの顔をわすれられない。
毎年、年賀状は1月になってからいただいた方々に送ってきた。牧師として、クリスマスの12月には、書くことができない生活をしてきたためである。同世代の何人かから、もう年賀状は出せません、出さないことにしますという便りがあった。私もそろそろそのような年賀状を書こうかと思っていた。しかし、娘の死の知らせは限られた人たちだけにしたので、今年はあらためて、しのぶの死の知らせを含めて、次のような葉書を年賀をいただいた方々に送った。

  くだけきる思いのほどの
かなしさも
かきあつめてぞ
さらにしらるる
(建礼門院右京大夫)
万葉の時代の女性歌人の歌です。ひとつひとつがかなしい出来事でしたが、こうしてかき集めてみるといっそうかなしく感じられる という歌です。「かなし」にはさまざまな文字を当てました。「悲し」「哀し」そして「愛し」また「美し」も「かなし」と万葉時代は読みました。
昨年9月20日に私たち夫婦の娘しのぶが56歳で逝去しました。万葉の歌人と同じ思いです。
孫の一人「結」は「麻衣比」と結婚して「ふらわ」(小一生)と「心和」の幼児を与えられ、「おばあちゃん」のよろこびも知りました。
愛し支えてくれた夫の「洋」次男の「史丸」と別れの悲しみもありました。
私たちは大﨑一家と「かなしみ」を共にし、あたたかな交わりの中で新しい年を歩んでいきます。
新しい年の祝福を祈ります。

このような便りです。
元旦礼拝を松戸教会で説教した。「今 ここに生きている」と題して幼い娘をもつ母の信仰(マルコによる福音書)と預言者エレミヤの苦悩と信仰を語り、娘しのぶのことも語り、元旦礼拝の奉仕をすることができた。


●石井牧師の予定●

  • 1月 4日 横浜菊名教会奉仕
  • 1月11日 横浜菊名教会奉仕
  • 1月18日 上総大原教会奉仕
  • 1月25日 横浜菊名教会奉仕